ここで、あらためて田中さんに話を聞いてみる。一職員として入った介護施設で理事長になり、施設の名前も在り方もがらりと変えた背景にあるものの一端を知りたかった。
「2011年3月の東日本大震災のときには、ここまで波が来たんですよ。地域の人も逃げてきて屋上に避難したんですが、ほんの100メートル先に住んでいる人でさえ、何の施設か知らなかったんです。有事には顔の見える関係が大事なのに、これじゃあいけないと思いましたね。
震災が落ち着いたころに、すぐ近くの幼稚園の先生たちから相談を持ちかけられたんです。子どもたちが箸も持てないし、ゲームばかりで遊ぶという話から、うちのパートナーさんが毎週水曜日に雑巾縫いを教えに行くようになったんです。行くのは認知症でもあるおばあちゃんたち。もう7~8年になるかな。コロナ禍で中断していましたが、今はまた再開しています。
子どもとお年寄り、社会的弱者といわれる二者が、先生も我々も介入しないで、普通に楽しく雑巾縫いをしているんですよ。
『雑巾縫いのばあちゃんだ』って言われて、生きがいになる。ケアする・される側ってこうやって入れ替わるものなんだ。むしろ昔の地域社会にはこういう関係がたくさんあったんだろうな。それを目指したいな、と実感した大きなできごとでした」
それから徐々に、ライフの学校はさまざまな人が混ざり合う場所になっていく。子どもや障害者の支援にも手を広げるとともに、高齢者は、「生」そのものを教えるプログラムの「ライフの先生」としての役割も担うようになった。
「イベントでライフストーリーを語ってもらったり、聞き取りをさせてもらって冊子にしたりすることは、本人や家族にとって一大イベントです。でも、それだけじゃなくて、周りの人が、障害、認知症、看取ること……いろんな人生を知る、学ぶスイッチを押す役割も担っています。
ちょうどこの前も、20人くらい集まったライフストーリー学のお話会があったんですが、参加していたパートナーが泣いてたんですよ。『私がこういう会をやってもたぶん2~3人しか来ない。あの人は、ちゃんと人に優しくいい人生送ってきたんだろうな』と。人は最後まで、新しい見方を得たり、学んだりしていくんだなと思いましたね」