だんごを作り始めたのは、五十嵐さんの父と母だった。山形県尾花沢市の出身だった父は戦後、隣町の大石田町に移り住んだ。その実直な仕事ぶりが認められ、「清水ばあちゃん」から「豆腐屋さんしねか(しない)?」と声をかけられて、結婚と同じタイミングで「横丁豆腐店」を開いた。1958年のことである。その頃の大石田町は今の倍、約1万5000人が住んでいた。
当時、大石田町には3軒の豆腐屋さんがあった。豆腐を作る時、大豆を煮るタイミングで大量の蒸気が出る。お盆、正月、お花見の時期になると3軒とも、その蒸気を利用してお餅やだんごを作っていた。近隣の人たちが持参するだんご用のうるち米、お餅用のもち米を使って作り、手間賃をもらうという副業だった。
そのうち、花見の季節になると自家製のタレをつけて、だんごを販売するようになった。その頃は地元の人にしか知られていなかったものの、「花よりだんご」で好評だったという。 少年時代、「おふくろの団子」を食べて育った五十嵐さんは、大学を出て就職し、仙台に赴任。後を継ぐために帰郷したのは、1988年だった。
「サラリーマン3年して帰ってきたんで25歳ですね。姉と妹がいるんですけど、長男なんで。地元の人には、よく帰ってきたな、頑張れなって声をかけられました」
1993年、お店のすぐ近くに「あったまりランド深堀」という温浴施設ができた。併設の食事処で豆腐を使ってほしいと頼みに行く時、五十嵐さんは手土産に「おふくろの団子」を持っていった。すると、施設のスタッフから「まだオープンしたばかりで売店で売るもんないから、このだんごを売ったら?」と提案された。断る理由もなくだんごを売り始めて、驚いた。
「豆腐は当時、35件ぐらいの小売店さんに毎日卸していて、1日3万円ぐらいの売り上げだったんですよ。でも、だんごはあったまりランドだけで1万円ぐらい売れて。これはすごいなっていうことで、本格的にだんごを作り始めました」
豆腐に加えてだんごも売れるようになり、経営は順調だった。高校の同級生だった妻、恵美子さんとの間にふたりの子どもが生まれ、穏やかな日々を過ごしていた。
ところが1995年頃、最も大口顧客だった個人スーパーが破綻。年間500万円の売り上げが消失して、風向きが変わった。大手スーパーやコンビニが進出してきた影響で地域密着の小売店もどんどんなくなり、一気に経営が傾いた。
「うちは町の豆腐屋さんで食品工場ではないから施設的な問題もあるし、値段的にも合わなくて大手スーパーには卸せない状況でした。子どもはまだ小さいし、豆腐屋さんをやめてサラリーマンなるべきか、悩んでいました」