東北の3月は、まだまだ寒い。冷え切った体を温めるべく、温泉宿を目指す。「ちょっと他では味わえない湯だよ」とSはニヤニヤしながら、すっかり日が暮れた道中を迷うこともなく「鉛温泉」へと向かった。東北は良質な湯がとても多いことで知られているから、源泉かけ流しにこだわる俺は楽しみで仕方ない。
「藤三旅館」は花巻市の山間にあった。「新日本名湯」「日本温泉遺産」などに選出される、風格を感じさせる総けやき造り建物と、湯治場として古くから守られてきた極上の湯が、幾多の旅人に愛されてきた。立派な本館の前をすーっと通り過ぎて、古めかしい建物の前で車を停めた。「こっちは従業員の宿泊所じゃない?」と言いかけたが、入り口のガラス戸には「湯治部」と書いてある。どうやら今夜の宿はこっちのようだ。
戦前を舞台にしたNHK連続テレビ小説に出てきそうな帳場で受付を済ませ、宿泊の心得を聞き、最後に「石油ストーブはいりますか?有料ですが」と質問される。「えーと、いらないです」と言いかけるKの言葉を遮り、「い、要ります!」と声高に叫ぶ俺。この取材旅行の予算が少ないことは重々承知している。ただ、外観からして部屋の中が暖かいわけがないだろう。追加料金といっても、たかが500円じゃないか。部屋で震えるようでは、せっかくの名湯も台無しではないか(案の定、部屋は凍えるような寒さだった)。
さて温泉に浸かろう。名物「白猿の湯」だ。この浴場、天然の岩をくりぬいて作ってあり、底からお湯が湧き上がっている。平均1.25メートルの深さがあり、必然的に立って入浴するという珍しいスタイルの温泉だ。ただし、立ったままの入浴は「立位浴」と呼ばれ、まんべんなく全身に湯圧がかかり、循環器系を整え、血行を促進させる効果があるとのこと。さらにドキドキするのは、混浴だということ。浴槽の縁に腕をかけ、極上の湯に浸かり、吹き抜けになった天井を眺める。
立ち呑みならぬ立ち湯。重力から開放された快感に身を委ね、やや熱めの湯が芯から体を温めるのを感じ取る。「雰囲気、泉質、入浴法。すべてが想定外だなあ」。俺とKが唸ると、Sは「へへへ。だろ」と頷く。東北きってのマニアックな名湯にガツンとやられた中年男3人は、6畳一間の簡素な和室に戻るや否や、仲良く川の字になると、スヤスヤと寝息を立てたて深い眠りについた。