「コロナ禍も2カ月休業してそれなりのダメージはあったのですが、全国的なことだったので、その時は楽観的に考えていました。ただ、今回の地震は……」
石田さんは目を掻きながら足元を見ている。
「本当にとんでもない……」一瞬沈黙が流れる。
「なにからしていいのかわかりませんでした。民宿は鉄骨なので建物自体は倒れる心配はなかったんですけど、内側がダメージを受けて。戸が開かなかったり、雨漏りしたり、ものが足の踏み場もないくらい散乱していたので、もう一度再開できるのかな……という気持ちでいました」
目の前の道路は割れ、もりあがり、車を走らせることはできなかった。民宿は自営業。客を迎えなければ生活ができない。「観光が復活したときに今まで通り能登を選んでくれるのかなっていう不安は、ずっと持っています」と石田さんは言う。
地震が起きてすぐ石田さんは、体が強くない母を東京に住む姉のもとに避難させるため、金沢まで見送った。妻と3人の子どもは、被害の少なかった能登島の入り口にある妻の実家に避難させた。1月から2カ月間、石田さんは避難所と家族のもとを行き来しながら、避難所運営の手伝いをした。
「能登島を終わらせたくない」
そういう気持ちはあるものの、頭がついていかなかった。能登島は5カ月間、断水が続いた。
「トイレもお米研ぐのも、もちろん料理もなにも簡単にはいかなくて。毎日、水汲みに行って」石田さんの言葉がつまる。
「ちょっとキツい部分はありましたね。避難所にいる間は、生きることに必死で、考える暇もなかったんです。3カ月経って家に帰ってからも、仕事ができない状況で。水が出ないから、片付けも進まないんです。昼間は子どもたちが集まる場所を作る活動をしていたんで忙しく過ごしていたんですけど、夜寝るときになると、色々考えて寝られなくなって……」
自宅には戻れたが、学校は閉鎖していた。親は、子どもを置いて仕事に行けない。悪循環に陥っていた。
その問題を解決するため、能登島の地域作り協議会が主体となり、日中子どもが集まれる場所を作った。しかし、避難所ではないため、昼食などは出ない。各家族にお弁当を持ってきて下さい、といっても水が出ない。子どもを安心して預け、親が働きに行ける対策を考えた。
「民宿で知り合った全国各地の方々が『手伝えることはないか』と声をかけてくれていました。『じゃあ、子どもたちの昼食になにかお願いできませんか』と頼むことにしたんです」
その日から、毎日のようにキッチンカーや、神戸のおいしいパン屋さん、焼き肉屋さんなどが訪ねてきては、子どもたちに昼食を振る舞ってくれた。ある企業からはストーブ100個が届き、下駄箱を作る資材なども、「能登島に」と送られてきた。ロックバンドBRAHMAN(ブラフマン)のTOSHI-LOW(トシロウ)が大量のお菓子を届けに来たこともあった。
石田さんが、能登島のためにと蒔いた種は小さな芽となり、人の縁として花咲いたのだ。