「ここに来るまで外国人に興味はなかったんですよ、英語もできないですし」という小笠原さん。
常総市のすぐ隣、下妻市で生まれ育った小笠原さんは、新聞販売店を営む両親のもとで育った。父は県立高校の野球部監督として、地元では有名な人物だったという。ふだんから自宅には高校球児の下宿人が出入りしていたばかりではなく、困っている人をしょっちゅう泊めたり、「まるで駆け込み寺のようなうちだった」と小笠原さんはいう。
自分たちよりも他人の子どもばかり面倒みているじゃないか、という反発があり、若かりし小笠原さんは早く実家を出たいという気持ちが強かったという。
「バイクに乗ったり、まあ、不良でしたね」と小笠原さん。
やがて結婚し二人の娘に恵まれた小笠原さんが、亀仙人街にたどりついた道のりはこうだ。
下妻市から車で15分ほどの常総市。そこにこの「亀仙人街」ができた。40年ほど前のことだ。亀仙人街には日本人がやっている居酒屋もあり、小笠原さんはバイトを経て、20年ほど前に、そこのママになった。
この亀仙人街の一角に「ランディワ」というスリランカ料理のレストランがあった。ちなみに茨城県はスリランカ人の人口密度が日本一の県である。しかし常総市のスリランカ人と地域の人との関わりは、ほとんどなかった。
となりで居酒屋をやりながら、小笠原さんとスリランカの人々との交流が自然に始まった。小笠原さんは彼らが読めない書類などを代わりに読んだり、病院に連れていったり、ちょっとしたことを助けるようになっていった。
そのうちにスリランカの人々が信心深い仏教徒で、お互いを助け合って生きていることに気づいたのだ、という小笠原さん。
「たとえばスリランカのお寺にいくと、誰でも食べられる無料のご飯があるんですよ、だからスリランカでは飢えで死ぬ人はいない、と言われているんです」困っている人に施しをすることで得を積む、と言う教えだ。
スリランカ人との交流が増える一方で、小笠原さんは自分の居酒屋にくる日本人客から発せられる、外国人に対する心ない差別的な発言を聞くのが嫌だった、という。日本人がこの地域に住む外国人の暮らしや文化を知ろうとしないままでは何も変わらない。小笠原さんは思い切って居酒屋はやめ、個人的に、だが本格的にスリランカ人を支援するようになった。支援内容は多岐に渡り、例えばスリランカで大人気のスポーツ、クリケットの大会を開くために会場を手配したり、文化を紹介するイベントを企画したり。
深刻な困り事があれば、病院や警察にいくこともある。揉め事があり、頼まれてはじめて入国管理局に一緒に行ったときは、ドラマと同じだ! と思ったこともある。まさにゆりかごから墓場までの支援を個人的に続けてきた小笠原さんは、だんだんと、片言だがスリランカの主要な言語「シンハラ語」でコミュニケーションができるまでになった。
居酒屋のママではなくなった小笠原さんだが、かわりにいつのまにか小笠原さんを「ママ」と呼ぶ外国人たちが増えてきた。中古車販売業を営むシネットさんもその一人だ。「スリランカ人にとってお母さんとは、子どものためにどんなことでもやってくれる、そういう存在。だからこの人は、わたしたちのママ」とシネットさんは言う。ふたりはもう7年の付き合いだ。
「結局、いつのまにか父親と同じようなことをやっているんですねえ」と小笠原さんは言った。