浴室には先客がいた。小さな共同湯では、目が合うと自然と会話がはじまるもの。男性は毎年必ずスキーで蔵王温泉を訪れているそうだ。いつも決まった宿に泊まり、そこにスキーを置いてあるほどの常連さんだった。
「帰る日の前の晩にはここに来ることが多いかな。体が芯から温まるし、ほかの共同湯よりも人が少ないからね」
川原湯が日本でも数少ない足元湧出温泉だということを、その男性は特に気にかけていないか、そもそも知らないようだった。ここがどれほど貴重なな温泉なのか、私は彼に説明したい衝動に駆られたものの、やめておいた。会話が途切れてからも、男性は念仏のようなひとり言を繰り返し、やがて別れのあいさつを言い残して去っていった。
ひとりになった私は、ひまを持て余し、彼の念仏のようなセリフを真似してみた。
「これぞ温泉。これぞ温泉なり」
湯の花が舞う浴槽の下を眺めると、ポコポコと絶え間なく、新鮮な湯が湧いていた。