適当に歩いているといつしか方向感覚が失われ、自分がどこにいるのかがさっぱりわからなくなった。気がつけば元いた場所に戻っていて混乱した。この感じ、前にも味わったことがあるなあと思い考えていると、ああ、そうだ、ベネチアだと思い当たった。あそこもクルマが通らず、建物が密集した海沿いの街だった。
おなかが空いたので、古民家を利用した「あなぐち亭」という蕎麦屋さんに入る。宿根木ではとても珍しいことに、立派な門構えや庭を持つ家屋なので、もともと集落の名家の家屋に違いなかった。
「あなぐち亭」の中はとても明るくモダンな作りだ。出てきたお蕎麦はコシがあっておいしく、野菜のかきあげがたくさんついてくるのが嬉しい。こんな静かな街でおいしいものにありつけるなんて、贅沢な気分だ。
この「あなぐち亭」は、もともとは佐藤伊左衛門という千石船の船主の家で、「穴口さん」という屋号で知られていた。伊左衛門はもともと酒造業を営んでいたが、いつしか自ら小さな船を手に入れ、廻船業を始めた。その後は積極的にビジネスを広げたようで、江戸時代末期には全国の港で「宿根木の伊左衛門」といえば知らない人がいないほどの有名人に成り上がった。明治時代になり、廻船業が下火になると、佐藤伊左衛門一家は、他の分野のビジネスに進出。いっときは佐渡島の高額所得者としてランキングに入るほどだった。いまの宿根木の姿からはその華やかさは想像もつかないが、一つの家のなかにもさまざまなドラマがあった。