その後、小腹を満たす大衆食として、戦後しばらくは人々に好まれていたという津軽そば。やがて高度経済成長やバブルと同じくして訪れた「飽食の時代」を経て食文化が様変わりし、需要は次第に減ってゆく。手間のかかる津軽そばが食堂のメニューから次々と姿を消す中で、三忠食堂は頑なに先代からのレシピを守り続けた。現在、黒沼さんのご子息が5代目として店の厨房に立っている。創業時から変わらない津軽の味は、これからも守られていくに違いない。
ついにそばが運ばれてきた。ブランデーを思わせる琥珀色のつゆから立ち上る湯気の向こうに、漫画「美味しんぼ」の作者のサインを見つける。ちなみに三忠食堂は漫画『美味しんぼ』の100巻に登場する。
立ち込める芳醇な海の香りは、津軽の隠れた逸品・イワシの焼干しによるもの。私の暮らす東京では滅多にお目にかかれない、高級だし素材だ。それを昆布と少量の醤油に合わせた、限り無くシンプルなつゆ。添えられたネギ、刻み海苔、なるとの素朴さが、旅情をさらに掻き立てる。
そばはホロホロとしていて、箸で運ぶうちに切れてしまうほど。食べてみると、熟成を繰り返した麺の甘みと、上品に漂う焼干しの香りが口の中に優しく包み込む。蕎麦特有のザラリとした食感も醤油の辛味がきりりと引き立つ刺激もなく、素材それぞれの繊細な味わいを舌がじわじわと感じ取る、これまでにない食体験。
各地から取り揃えた、異なる食材の味を引き出す東京のそばに対して、目の前にある大地の恵みをシンプルにかけ合わせる津軽そば。その存在感は、多様な味覚がグローバルに交差する現代の食文化に対するアンチテーゼのようだった。
ちぎれた麺が底に溜まったつゆをぐいっと飲み干すと、隣のテーブルの男性が話しかけてきた。
「ラーメンは食べないのか?ここのは旨いよ。青森県知事さんも大のお気に入りのやつ」