つくばが箒の産地となった歴史を、フクシマさんが『茨城県の農家副業 第四篇』という資料とともに聞かせてくれた。この本はタイトルのとおり、農家に向けてさまざまな副業を推奨する内容のもので、第一章「筑波郡大穂村の草箒」にて当地の箒作りについて取り上げられている。
「『ホウキグサは強い植物で、どんな土地でも栽培が容易で肥料も労力も少ない』と書かれています。私からすればとんでもないですが、当時の農家さんからしたら容易だったのかもしれない」とフクシマさんは笑った。
つくば市は、全部で6つの町村が合併してできた町だ。その中にあったのが「大穂の箒」が有名だった大穂町。茨城県の小さな町に箒がやってきた経緯はこうだ。明治22年(1889年)3月、農作物の種子売りの行商をしていた中島武平という男が、栃木県鹿沼市にたどり着いた。鹿沼は当時から箒づくりが盛んな場所で、それを将来有望だと考えた武平は、鹿沼で2年間箒づくりを学んだという。そしてそれを自分の故郷である、大穂町の前野地区に持ち帰った。
この前野地区という場所は、大穂町のなかでも桜川の西側に位置し水田が少なく、良い作物ができない貧しい地域であった。そこに「どんな土地でも栽培が容易」なホウキモロコシがやってきたのである。前野の人々は「よくぞ持って帰ってきてくれた」と喜び、箒づくりは大穂の産業になっていった。当時はホウキモロコシの栽培、箒職人、材料を販売する人など、箒に関連する仕事をしている人がほとんどだったという。
「箒が大穂の町を救ったんですよね。でもそこで終わりじゃないんです」
この土地になぜ箒がやってきたのかはわかったけれど、資料には続きがある。「大正10年代から昭和13年ごろまでが、戦前における大穂の箒制作の最盛期であった」。そう、戦争が始まったのだ。
日本全国で食料以外の栽培が制限され、ホウキモロコシの栽培ができなくなった。それでも日本各地で箒をつくっていた人々は「パンの材料です」と言い張って、どうにかホウキモロコシの栽培を続けたそうだ。実際にホウキモロコシの実を食べることもし、他の材料と混ぜて箒を作り続けた。おそらく大穂でも同じような状態だったのでは、とフクシマさんは言う。
「それしか仕事がなかったから、守りたいという一心だったんじゃないでしょうか」
そうして守ってきた箒づくりだが、戦後には別の意味で存続が難しくなる。今度は、高度経済成長によるゴルフブームのため、ホウキモロコシから芝生栽培へと転換する農家が増えていったのだ。さらには掃除機の登場。需要も供給も減った箒では、職人の生活も苦しくなっていった。
「師匠も一時期は箒だけじゃ食えないからって勤め仕事をしながら箒を作っていました。ホウキモロコシを栽培する人が減ってしまったから、自分で栽培から箒づくりまでを一貫してやるようになったと聞いています」
今、つくばにホウキモロコシを専業で作っている農家さんがいるわけではない。信頼している農家さんに作ってもらうか、もしくは酒井さんやフクシマさんのように箒職人が栽培からすべてやるしかない。中島武平が持ち帰った箒文化は、なんとかギリギリのところで守られているのだ。