鬼頭先生は「よみがえる安曇野」を見て、自分でも体験したことがあるのだという。映画の中で、赤ちゃんが産湯に浸かっているシーンがあって、そこに写っているピンク色の小さなバスタブはたまたま自分が子どもの頃、家にあったものと全く同じものだった。
「それを見た瞬間、自分のなかで、何かのスイッチが入ったんです。使わなくなったそのバスタブに金魚を入れていて飼っていたこと、その周りで兄弟と遊んだことこと。それ以外のたくさんのこと。一つの映像で、一気にいろんなスイッチが入って、子どもの頃の記憶がバーッと、よみがえってきたんです」
地域映画のフィルム提供者にとって、この映画はまさに人生の宝物だろう。だがしかし、たとえ自分が写っていなくても、自分の記憶がよみがえるということ。それは時として、人が生きるための、大きな力になるのかもしれない。町の人がこの映画の完成を喜び、毎週のように「よみがえる安曇野」を上映しているのも、きっと多くの人が鬼頭先生のような体験をしているからなのだろう。
そしてそれは、素人のフィルムに心動かされたことがきっかけで、地域映画をつくり続けている大輔さんにとっても、全く同じことなのだろう。
「地域映画を作るには、外の視点をもつことが必要だ」と大輔さんは語る。どこの地域でも、たいてい地元の人たちは、自分たちがもっている素晴らしい宝物を、宝だとは気づいていない。だからこそ各地の8ミリフィルムは、それを知る人が必死になって守っていかないといけない。
でも一方で「自分たちもこの映画をつくることで、町の人たちと深い関係性を築くことができ、この町で生きて行く力になったんだと思う」と大輔さんは語ってくれた。
地元の人々の生きる力になるだけではなく、作り手の生きる力にもなる。それはやがて、地域の多様性や活性化へと繋がっていくだろう。地域映画のもう一つの、そして大事な役割は、そんなところにもあるのかもしれないな、と私は思った。