それでも、「道」を使うのは大変なことだった。道路交通法を管轄する警察に何度もおしかけて、道路の使用許可を申請した。最初はケンもホロロだった警察も、彼らのあまりの熱心さに心を動かされ、「町おこしになるなら」と三年後には許可を出してくれた。そして、イクオさんがパントマイム仲間や芸人の知り合いに声をかけると、10組ほどの芸人が野毛に集結した。
「最初の頃はさあ、よく芸人さんに怒られたよね。だって舞台がないんだもん。『どこでやんだよ!』なんて聞かれて、『ここです!』って答えると、「舞台、ねえじゃねえか!」って。それで急いで『シートを敷きます』なんて答えてねー」
そうして、ようやく迎えたイベントの当時、大道芸人の周りは数十万人もの人が鈴なりになった。その円の中心には、まるでスポットライトが当たっているかのようだったという。なんの変哲もない道が、「劇場」になった瞬間だ。その時「野毛っておかしな街だなあ。きっと大道芸がよく合うんだ。これでいこう!」と関係者は手応えを感じた。
翌年には、第一回「大道芸フェスティバル」が企画された。イクオさんも初代プロデューサーとして参加し、芸人集めなどに奔走した。
記録によれば、第一回目(1986年)には20組のパフォーマーが出演し、約3000人の観客を集めた。続く第二回には、空中ブランコが初めて空に舞い上がり、観客をわあっと沸かせた。今度は道がサーカス小屋になったのである(なんて面白いんだろう!)。
そして第三回には、人気の民謡歌手の伊藤多喜雄さんが初出演。紅白にも出演したことがあるベテランの伊藤さんを筆頭に、35組の芸人が参加し、なんと約5万人(!)の観客を集めた。
「伊藤多喜雄さんはね、もう歌がもう抜群なんですよー。フェスティバルでも、毎回トランクは札でいっぱいになるの。投げ銭が百万円を超えて、誰も破れない記録的を作ったよね。風が吹くとたくさんのお札がばーっと飛んでいっちゃって、お客さんが『俺が入れた札がー!待てー!』とか言って追いかけていったり」
その後、フランスやドイツ、アメリカ、アジアなど世界各地のサーカスパフォーマーやミュージシャン、演劇集団、コメディアンなどがフェスティバルに参加するようになると観客数も膨れあがり、やがて十万人を軽く突破。野毛大道芸フェスティバルの人気と存在感は、不動のものとなった。そして90年代半ば以降は、日本各地で大道芸フェスティバルが行われるようになり、大道芸は徐々に市民権を得ていった。
2014年(第29回)には、昔からの関係者にとって特に嬉しいできことがあった。その年、イクオさんの息子の清野美土さんが、ケルトミュージックで大道芸フェスティバルに出演したのだ。あの砂利で遊んでいた赤ちゃんが成人し、彼自身もまたパフォーマーになったのである(バンド「ハモニカクリームズ」を結成している)。
そして、野毛大道芸フェスティバルは、今年で44回目(4月27日、28日)を迎えようとしている。