10年も日本を不在にしていたため、イクオさん一家の新生活はいきなり厳しいものだったようだ。東京で住み始めたアパートも、赤ちゃんが生まれる頃には追い出されてしまう。その時にたまたま友人の紹介された部屋が、横浜の野毛だった。花の都・パリから戻ったばかりのイクオさんには、野毛は冴えない呑んべえたちの街だった。
「野毛にはカッコいいものはなにひとつなかった。横浜の中でも元町とか伊勢佐木町とかはいいけど、野毛は親父が焼酎飲んで焼き鳥食ってる街だろ、みたいな」
やがて、イクオさんは渋谷の公園通りにあった小劇場「ジァンジァン」に出演し、パントマイムのパフォーマンスを披露した。「ジァンジァン」は80年代〜90年代ごろのカルチャーを牽引した伝説的なシアターである。
「ジァンジァンなんて、すごいですね」
「いやあ、全然お客さんがいなくて、ひどい時は10人以下。それで、夜遅く野毛に帰ってくると、こっちの飲み屋はわんわん賑わっているんですよ。ああ、日本人は酒に金は使っても芸事に金は使わないんだって思いました」
しかし、イクオさんはめげなかった。
「これをほっとく手はないなと思って、生きる手段として大道芸を始めたんだよ。自宅の前の道で女房がオルガンを回して、俺がパントマイム。手回しオルガンだから、回すだけで音楽がなるの」
それは、路上で弾くことを目的にデザインされた大きな音のオルガンだった。
「オルガンは、フランスにいるときに500万円で買ったもの。当時の有り金を全部はたいて買ったんです。俺は、有り金をはたくの好きでねえ。前にも免許を取ったその日にフォルクスワーゲンの新車を買ったの。見事に全部のお金を使い果たしちゃったから、ガソリン代もなかったよね。とにかく全部はたくのが好きですねー。お金がなくなると、ものすごい生きる気力が出てくるの!わっはっはっは…!」
話を戻そう(笑)。今となっては想像することしかできないが、時は80年代。呑んべえたちの街の片隅で繰り広げられるフランス仕込みのパントマイムである。傍らには立派な異国のオルガンときてる。見ていた人はかなり驚いたのではないだろうか?
「オルガンの音でわあっと人が集まるから、無理やりパントマイム見せるの。最後に、『はい、投げ銭ですよ!』って言うんだけど、みんな慣れてないから、わあっと逃げてくの。思えば、あのとき、息子は2歳くらい。大道芸の間は放っておくしかなくって、気がつくとよくいなくなっちゃった。あわてて探したら裏の広場のホームレスの人に抱かれて、弁当をご馳走になっているときもあったよね。それからだね、俺たちが大道芸をしていると、街の誰かが息子を捕まえておいてくれるようになったのは」