1984年の2月に行われたサラエボ五輪。メダルが期待されていたスピードスケートの日本代表選手、黒岩彰さんを紹介する番組をたまたまテレビで観た。群馬県嬬恋村出身の黒岩さんが子どもの頃、田んぼにつくったリンクで滑っていたと知り、ピンときた。
前年には、当時の渡辺弥七町長がやはり嬬恋村を視察して町内に天然のスケートリンクをつくっていた。顔見知りだった町長から「田んぼリンク」の設営と運営を頼まれた大内さんは、仲間を募って嬬恋村と、同じく田んぼリンクをつくっていた長野県南佐久郡臼田町立臼田小学校を訪問。リンクづくりと指導方法を教えてもらい、その年の11月には「川俣スケートクラブ」を発足させた。
ただ田んぼに水を撒けばスケートリンクができるわけではない。気温が下がる夕方から夜にかけて、重たいホースで放水する。分厚い手袋をしても手がかじかみ、外気に触れる耳や鼻は体温を失って氷のように冷たくなる。「川俣スケートクラブ」の事務局長に就いた大内さんを含む発起人の5人が、この重労働を担った。ボランティアで続けられたのは、すぐに町の子どもたちに変化が表れたからだ。
「うちはリンクのすぐ近くにあるから、近所の子どもたちがスケート靴を持って家に来るんですよ。今日滑れる?って。ある時、気温が高くてまだ氷ができてないからダメだと言ったら、子どもたちがこう言いました。『え~もっと寒くなればいいのに』って。これこそ、おれが聞きたかった言葉でした」
外は寒いからとコタツから離れず、ファミコンばかりしていた子どもたちが、田んぼリンクで何時間も遊んでいる。その姿を観るためなら、氷づくりの重労働も耐えられた。