そんな「港の人」のブースの中で、ひときわ目を引いたのは、『世界』という本だった。著者は、チェスワフ・ミウォシュとあるが、聞いたことはなかった。
白一色のカバーに、タイトルである『世界』と著者名、版元の名前だけがシンプルに活版印刷で入っている。こんなシンプルなデザインの本は、今時なかなかかお目にかかれない。手垢がついてしまいそうなので、自分の手が汚れていないか確認して手にとった。
開いてみると、20編の詩がのびのびと収められている。その生き生きとした言葉を見ているうちに、背筋がすくっと伸びるような感じがした。
「作者のミウォシュは、ノーベル賞も受賞したポーランドでは国民的な詩人です。彼は、第二次世界大戦の最中にこの『世界』を書いて、地下出版したんですね。ナチスがワルシャワに進行し、戦況が激しくなった頃に、こういう美しい世界を創造し、詩に託したミウォシュは本当にすごいと思います」
詩集には、窓から見た光、森を探索した時の素晴らしい気分、風や花、愛や希望に満ち溢れている。しかし、実際には当時のワルシャワでは、毎日のように大勢の人が殺されていたのだ。その渦中でひっそりと生まれた『世界』は、日本では知られることとがないままだった。
しかしある日、ポーランドで行われたミウォシュの生誕百周年のイベントに関わった訳者の石原耒さんから、「この詩集を日本で出版したい」と下訳を渡され、それを読んだ上野さんは、すっかり感銘を受けたそうだ。
「すぐに出しましょう! ということになりました。それから四年間をかけて、版権の交渉や翻訳などの準備をして出せました」
もし上野さんが大きな出版社で働いていたら、きっと営業担当者から「売れない」と反対され、出版されなかった確率も高いだろう。しかし「港の人」では、上野さんの思いひとつで発行することができる。それが、小さな出版社の最大の強みだろう。そして、70年の時を経て、日本人の目に触れることになった。すごいことである。
川内 有緒