さて朝から始まった、バスの旅に話を戻そう。バスに揺られて約10分、降りたところは、なんとさいたま市役所そのものだった。
ここに職員が作った「←」があるらしい。8人の集団はぞろぞろとエレベータに乗り込んだ。向かうは文化振興課。
働く公務員がたくさんいる、平日の静かなオフィスの中を進んでいくと、文化振興課の福司さん、野田さん、小久保さんたちが、笑顔で迎えてくれる。
「課長が作った「←」が窓際にありますよ!」と福司さん。
文化振興課があるスペースの窓の向こうはさいたまの街が一望できる眺め抜群のスポットだ。その窓際にちょこんとガラスのボトルが置かれていた。ボトルの中はカニと真っ赤な「←」。もちろんその先は、トリエンナーレの会場を指している。
え!? なんでカニ? とみんな驚いていると、この「←」を作った大西課長は、大学時代、海の底に住む生物についての生物学を専攻していたのだという。
ただ好きなものを、ボトルの中に「←」と共に詰める……、うーん、「←」って、本当に自由に作っていいんだ……と私は長島さんが作った、そのルールのおおらかさになんだか感心してしまった。
さて、このなんとも芸の細かい「←」と女優・谷川清美さんを、しかも静かな市役所の中で、いったいどのように撮影するのだろうか?
長島さんと川瀬さんと清美さん、それから衣装の藤谷香子さんは、あの大きなバッグから中身を取り出し、あれこれ相談を始めた。そう、香子さんが抱えてきたバッグは今日の撮影のための衣装がたくさん詰まっているのだ。
清美さんが「香子さんが持ってきてくれる衣装はいつも、初めて出会う「←」の現場にぴったり似合うようになっているのよ」と感心したように私にそっと教えてくれた。
衣装は決まった。それは市役所の中では滅多にお目にかかれないであろう、真っ赤なワンピースだった。
会議から戻ってきた大西課長にも登場をお願いして、いよいよ撮影。ゆっくり考えながら、撮影を進めていく川瀬さん。それを見守る「←」のチームと福司さんたち文化振興課の職員の皆さん。
なんだなんだ? と遠巻きに眺める他の課の職員たちもいる。
その風景はまるで、市役所の日常に「←」が突如持ち込んだ、ささやかで楽しい非日常が、出会ったかのようであった。
「←」のプロジェクトは、決して上演ではない。だけど、なんだか「←」に巻き込まれた素人さんたちとプロによる即興の芝居が、市役所の中で繰り広げられているようで、私は見惚れてしまった。楽しくて目が離せない、とても稀有な時間帯だった。
撮影後、大西課長に「←」に参加した感想を聞いてみた。
「このプロジェクトは考える楽しみが、参加者にありますよね。どういうのにしてやろうか? ってずっと考えてたんです」と大西さんは笑顔で教えてくれた。
松本美枝子