少し時計を巻き戻して、一日前のお昼どき。私はさいたま市の岩槻へと来ていた。「さいたまトリエンナーレ2016」の参加作家の長島確さんに会うためだった。
長島さんは誰もが想像する、いわゆる美術の「アーティスト」とは、ちょっと違うかもしれない。その肩書きも「ドラマトゥルク」という。日本では聞きなれない職業だが、演劇が盛んなドイツでは普通の仕事であり、演出家や劇作家のパートナーとして、演劇上演に関わるさまざまなことを共に考える役職を指す。組む相手や企画によっても、仕事の内容は変わってくるという。日本では、ドラマトゥルクを本職として活動する人は、長島さんを含めて、まだほんの数名と言われている。
一方で長島さんは演劇の現場だけではなく、演劇的な発想を用いたアートプロジェクトをいくつも手がけて来た。例えばギリシャ悲劇に出てくる有名な一族の物語を東京の下町の家に展開する「アトレウス家」というプロジェクトは、実際の民家の中に物語と現実のあわいのような空間を参加者と共有する試みだった。
さて、そんな長島さんの今回のプロジェクトは、「←」(やじるし)という。このプロジェクトは、劇作家・太田省吾による演劇作品「↑(やじるし)」シリーズに着想を得たもので、さいたま市に在住、あるいは勤務、通学などしている人であれば、誰もが参加することができる。
参加方法はいたって簡単で、参加者は登録して、各自でやじるしを作り、それを自宅前や職場の外に掲げるというものだ。やじるしが指し示す方向を守れば、作り方や素材はとても自由。その方向とは、ズバリ、トリエンナーレの主な開催エリアである。さいたまトリエンナーレへの道しるべとなるように、手作りのやじるしを外に掲げるのだ。
そして参加者を呼びかけるチラシには、こうも書いてある。
『皆さんのつくる←は、写真におさめ、大宮タカシマヤ内に展示。←をたどる不思議な物語の一部になります』
『←を作ったら登録してください。かならず写真を撮りに行きます!』
岩槻の街で昔ながらの店として親しまれているという「中華の永楽」でご飯を食べながら、長島さんへのインタビューが始まった。一昨年に参加のオファーをされてから「ここで一体どんなことができるだろうか?」と何も決めずに、まず、さいたまの街へリサーチに来たのだという長島さん。
「アイディアを練るために、とにかく街を歩いたんですよね」と長島さんは言う。自分のプロジェクトでは、さいたまのいわゆる「名所」ではなく、市民の普通の生活動線に関わっていきたい、と最初から考えていた。徹底的にさいたまの街を歩き潰してわかってきたことは、東京などに働きに出ているから、昼間はその姿は見えにくい、けれども、この街に確かに住んでいるたくさんの人々の「気配」だった。
「トリエンナーレを誰のためにやるか? と考えた時に、アーティストとして、自分一人だけの作品というのではなく、誰かと協働して何かをやりたい、という気持ちがあったんです。それをこの街の人とやりたい。ハードルは低くして誰でも簡単に参加できながら、アーティストの作品の一部としてではなく、最後まで参加した人のものであり続け、その人の責任になるような、そういうプラットフォームを作ることはできないか? と思ったんです」と長島さんは言うのだった。
町中に散らばった、手作りの小さなやじるしが、一斉にトリエンナーレ会場の方向を指している。それは想像してみると、なんとも素敵な光景ではないだろうか。
松本美枝子