7時にセットした目覚まし時計が、鳴っていた。どうやら、三つ目の夢を見ていたようだ。しかし、眠りが深かったのか、秩序だった夢ではなかった。
私は一階のテーブルまで降りていき、最初に見た二つの夢を「夢の本」に書きつけることにした。ふと窓を見ると、風鈴があった。やっぱり、あの音は現実だったのだ。
夢は、特段変わったものではなかった。むしろ、いつも一緒にいる家族や友人、昨日会ったばかりの飛田さんが出てきて、現実感に溢れたものだった。知らない“何か”とのテレパシーというにはほど遠く、残念だ。
その後、朝食のパンとコーヒーをお膳にセットして食べると、私は現実に戻った。食べているうちにまた夢の断片を思い出したので、少しだけ文章を追加した。最後に、川内有緒と署名をする。
これでよし。ようやく、私も二千数百人のドリーマーの仲間入りをしたわけだ。
それにしても、マリーナ自身もこれほど長く「夢の家」が続くなどと思っていなかったのかもしれない。彼女はのちに出版された「夢の本」にこう書いている。
本当に信じられないことが起こったのだ。「夢の家」の住民たちが、その家を自分たちのものとして受け入れ、その世話をし続け、「夢の家」が彼らのコミュニティの一部となったのである。作品がアートというコンテクストから出て、現実の生活に入っていったのは、私にとって初めてのことだった。(『夢の本』)
実は、この家は、2011年の3月に起きた長野県北部地震で壊滅的な被害を受け、一時期は存続が危ぶまれた。地震の直後に家の中に入った恵美子さんは、「ああ、これで『夢の家』は終わった」と思ったそうだ。しかし、大地の芸術祭の総合ディレクターである北川フラムさんは、『この家だけは絶対に守りたい』と語り、とんでもなく大規模な修繕を経て復活を遂げた、と飛田さんが教えてくれた。
「たぶん作品というのは、アーティストが種を植えたようなものなんですよね。そうして、人が水をあげたり、栄養を与えたりして育てていく。夢の家は、地震のような災害もありましたが、集落の人や訪れる人、想いのある人によって守られてきたのだと思います」(飛田さん)
同じようなことだが、北川フラムさんは、アートをこう表現する。
アートは赤ちゃんのように、泣き叫ぶ、言うことを聞かない、手間がかかるものです。生産性は無論ない。しかし面白い。だから周りの人同士が助け合うのです。(『ひらく美術』ちくま新書)
そして、瀕死の“赤ちゃん”は無事に息を吹き返し、三人の管理人は、日々お世話を続けている。それは、やりたいこと、というよりも「もはや、やらなければいけない“宿命”のようなものだ」と幸子さんは言う。そのおかげで、私は今日もここに泊まることができるのだから、本当にありがたい。
それにしても、なんて奇妙で特別で、幸せな一夜だったのだろう。こんな異世界に連れて行ってくれる場所は、なかなか他にないと思う。
そうだ、万が一私が見た夢がどんなものか知りたいという方がいたならば、ぜひ「夢の家」を訪れてほしい。あのノートをゆっくりと読むこともまた、訪問者の特権なのだ。
集落の住民のうち、夢の家で寝たことがある人はほとんどいない。「夢の家」に泊まるのは、いつでも外から来た人々だ。
しかし、「夢の家」は、集落の人にとってもやっぱり「夢の家」なのではないだろうかと私は思う。何しろ、ここを目指して、スーツケースを引っ張りながら、大勢の人がきつくて長い坂道を登ってくる。日本全国から。時には遠い外国から。それは、過疎の集落では、よくも悪くも“夢”のような光景じゃないだろうか。
マリーナは、あれから一度も集落にはやってきていない。この作品はすでに集落の手に委ねられたのだから自分は必要がない、というスタンスだ。それでも集落の人たちは、「マリーナの直接の知人」という人がここに来ると、こんな伝言を頼むこともあるそうだ。
「ねえ、私たち今もずっと頑張ってるよ。そうマリーナさんに伝えて」
川内 有緒