未知の細道
未知なる人やスポットを訪ね、見て、聞いて、体感する日本再発見の旅コラム。
63

馬と共に歩んでいきたい

女手ひとつで作られた美しき馬森牧場へ

文= 川内有緒
写真= 川内有緒
未知の細道 No.63 |20 March 2016
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#8今日から余生だ!

 その翌年、ついに最初の乗馬のお客さんを迎えた。乗馬スクールに通っていた頃の友人で、選んだ馬は、あのダイフク。
 近寄ることすらできなかったダイフクはその後、劇的な変化を遂げていた。そこには、菅野さんの忍耐強い訓練があった。
「まずは背中を向けてじっと立ち、ダイフクが興味を持って匂いをかぎに来るまで待ちました。馬は人の正面を怖がります。目が正面についた生き物は肉食獣と同じで怖いのだそうです。だから、匂いをかぎに来たら、ちょっとだけ馬のほうを向く。これを繰り返して、やっと正面から触れられるようになりました」
 次はダイフクに紐をつけて、厩舎の通路付近につないだ。馬たちの出入りがあるところで、用事があるたびにダイフクの首や背中をぽんと叩き、刺激に慣れさせた。そうやって、背中にまたがれるまでに一年を要し、さらに人を乗せて走れるようになるまで辛抱強く訓練を続けた。
 そして入厩から三年、ついにダイフクは人を乗せて指示通りに走り始めた。「その時『夢はかなった! 今日から余生だ!』とは思いました」

 あれから、色々な人がこの牧場にやってくる。馬を見たこともない超初心者から乗馬経験者、競馬のジョッキー、牧場で撮影をしたいというカメラマンに、コスプレをして馬と撮影したい人たちまで。東京からの家族連れも多い。夏は海で泳いでから馬に乗り、バーベキューやたき火をするのもおすすめだそうだ。
「間口が広いなあ」と感心するが、それはテーマパーク的なフルオープンな間口ではない。求める人にだけ、そっと扉が開いている感じ。むしろここはプライベート感が大切にされている。敷地内に立つ一棟立てのゲストハウスに宿泊できるのは一組だけだ。自分たちだけで、この雄大な風景を独占できるというのは、この上ない贅沢だろう。
 ただ、その一方で「ホースセラピー」という言葉が一人歩きして、苦労も少なくない。通常、公の場で身障者向けのホースセラピーを行う馬は、もって生まれた資質から選ばれ、特別なトレーニングを受けたエリートである。普段馬との接点のない人がそういった馬を一度見ると、すべての馬がそういうものだと思い込んでしまう。
「とにかく、みんな馬が優しいと思っているんです。しかし、多くの馬は急な動きや大きな音には驚きますし、見慣れないものにはおびえます。そういうことが分からずに、馬は優しくて、主人に尽くしてくれるんじゃないかって思い込んで、小さい子を突然近づけたりする人もいます。でも、馬は、臆病で依存心の強い草食動物なんです。そもそも、馬に乗ることだけがホースセラピーのすべてではないし。そういう誤解がなくなるように、これからもっと馬のありのままの姿について発信していきたい」

 そんな話をしていると、今度は竹やぶの中を進む細い一本道が現れた。さらさらと竹がそよめく道は幻想的で美しい。ただ歩いていても気持ちがいいこんな場所をもし馬で走れたなら、どんなに気分が晴れるだろう。田舎道を車で走ることが大好きな私にとっては、夢のようである。もちろん、ここも彼女が苦労して開いたルートだ。
「月夜には、ここに一本の月明かりがすうっと降りてくるんですよ」

 
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未知の細道 No.63

川内 有緒

日本大学芸術学部卒、ジョージタウン大学にて修士号を取得。
コンサルティング会社やシンクタンクに勤務し、中南米社会の研究にいそしむ。その合間に南米やアジアの少数民族や辺境の地への旅の記録を、雑誌や機内誌に発表。2004年からフランス・パリの国際機関に5年半勤務したあと、フリーランスに。現在は東京を拠点に、おもしろいモノや人を探して旅を続ける。書籍、コラムやルポを書くかたわら、イベントの企画やアートスペース「山小屋」も運営。著書に、パリで働く日本人の人生を追ったノンフィクション、『パリでメシを食う。』『バウルを探して〜地球の片隅に伝わる秘密の歌〜』(幻冬舎)がある。「空をゆく巨人」で第16回開高健ノンフィクション賞受賞。

未知の細道とは

「未知の細道」は、未知なるスポットを訪ねて、見て、聞いて、体感して毎月定期的に紹介する旅のレポートです。
テーマは「名人」「伝説」「祭り」「挑戦者」「穴場」の5つ。
様々なジャンルの名人に密着したり、土地にまつわる伝説を追ったり、知られざる祭りに参加して、その様子をお伝えします。
気になるレポートがございましたら、皆さまの目で、耳で、肌で感じに出かけてみてください。
きっと、わくわくどきどきな世界への入り口が待っていると思います。