男が家に帰ると、息子が囲炉裏のそばで座ったまま眠っていた。「風邪ひくぞ」と肩をゆすると、息子はそのまま床に倒れこんでしまった。やれやれ、と抱き起こした男の顔はそこで凍りつくことになる。顔の半分が削り取られ既に息がなかったのである。「マユ!」妻の名を呼びながら家の中を見渡すと、壁も天井も赤に染まっていた。「うぁあああ!」男は家を飛び出して一目散に村人たちのもとへ。村人たちが家の様子を見に行くと、マユのものと思しき血痕が、信じられない大きさの足跡とともに突き破られた窓の外へと続いていた。「ヒグマの仕業だ……」男たちは戦慄した。
ときは大正。開拓民の村に厳しい冬が訪れたばかりのことである。事件翌日、村人たちはヒグマの隙をつきマユの遺体を回収する。そして通夜が行われたその夜。地響きとともに扉を突き破る音がした。その衝撃で家中の灯りが消え、暗闇の中、獣の呼吸音が響き渡る。瞬間、その場にいた全員から悲鳴が上がった――。気が付いたときには「目を覚ませ!」と体を揺らされている村人。あまりのショックに失神する人物もいたが、一斉に騒ぎ立てた音でヒグマは退却していった。しかし、惨劇はそのあとだ。逃げたヒグマは500mほど離れた隣家を襲っていた。その家では9人の女子供が身を寄せ合っていたが、彼女たちの悲鳴を聞いて駆けつけたときには、すでにとき遅し。妊婦を含む5人の命が奪われ、幸運な1人(失神したまま無傷であった)を除く3人が重症を負っていた。
その後もいくつかのドラマがあり、伝説のマタギと呼ばれる人物によって仕留められたヒグマの大きさは2.7mもあったという。この「三毛別ヒグマ事件」は、世界最悪の獣害事件として知られているが、その教訓から学ぶべきことは多く、事件跡地には当時を再現したジオラマまである。写真で見るとB級スポットにしか見えないが、事件を知って想像してほしい。そこに広がる想像を絶する光景を。
----その土地を知れば知るほど絶景が見えてくる。----
ライター 志賀章人(しがあきひと)