なぜ私が森川さんのお宅にお邪魔したかといえば、奥能登の農家で受け継がれる農耕儀礼を見学させてもらうため。この地で土を耕してきた人々が神に対して収穫を感謝する「あえのこと」と呼ばれる儀式がとても独創的なことを、私はあるときに知った。彼らは田畑にいると考えられている神さまを家に招待してもてなすのだが、目には見えない精霊を、あたかもその場にいるように振る舞って歓待する。また担い手が減りつつあるという事実を知り、儀式の一部始終を見ておきたかったのだ。
午後3時になると、笠を被り蓑をまとい、鍬を手にした森川さんが現れた。自宅前の田んぼに降りると、鍬で土を耕す。次に柏手をうち、両手を前に差し出して口上を述べた。
「私が家まで案内しますので、ごゆるりとお歩きください」
森川さんは体の不自由な人に付き添うように、ゆっくりと家に向かう。滑りやすい箇所や段差のある場所が近づくたびに、丁寧な言葉で注意を促し、やがて家に入った。
森川さんは「田の神様」と呼ばれる、田畑を守り農家を助ける精霊を田んぼから掘り起こし、自宅に招き入れている。奥能登の農業に携わる家では、このような神事が古くから執り行われてきた。その起源は定かになっていないものの、江戸時代後期の始まりごろには現在に近い作法が確立したのではないかといわれている。
田の神様とは、どのようなお方なのか?それは誰にもわからない。それは誰にもわからない。過去から現在まで、その姿を見た者がいないからだ。ただひとつわかっていることは、神様は目が悪いということ。田んぼの見回りをして稲の葉先や穂先などが目を傷つけたためだ。よって、あたかも神様が目の前に存在するかのように一家の主は行動する。目の見えない田の神様を気にかけ、手を添えてゆっくりと家まで移動する様子は、まるで透明人間とやり取りしているかのようだ。