今から140年ほど前の明治10年、旧会津藩士が天然炭酸水を「太陽水」と命名、白磁のビンに詰めて会津地方と近県の薬店に卸し、「慢性胃腸病、糖尿病、便秘の妙薬」として販売を始めた。さらに明治36年(1903年)、飲料製造会社が欧州からドイツ人技師を派遣させるなどして、すでに薬泉として一部で知られるようになっていた天然炭酸水のボトリング工場を作った。
口当たりよく、ミネラル、中でも鉄分を豊富に含んだ天然スパークリングウォーターを国内では「万歳炭酸水」として銀座の直営店で販売、そして海外には「芸者印タンサン・ミネラルウォーター」という名前で出荷させた。
ただし国内では非常に高価だっため、健康意識の高い一部の上流階級のみが愛飲した天然水だったようだ。ところが、問題は金山のロケーションだった。道路が整備されていない当時、輸送手段は船と馬。採水地から東京へ運ぶために相当な手間と時間を要したことは想像に難くない。
輸送コストがかかりすぎたことから、このベンチャービジネスは道半ばにして頓挫してしまう。その後、何度か事業化の話が持ち上がるものの、実現することはなかったという。そして現在の炭酸場が整備されるまでの数十年は野ざらしのまま放置されていた。