かわら版
- 江戸びとぐらし百景 -

浮世絵や江戸の資料をもとに江戸庶民の日常を知ることができます。
江戸時代の人々の知恵や遊び心・・・そうだったんだ!と江戸の楽しさを発見することができます。
「江戸びとの暮らし百景」として、いくつかの作品を紹介します。

浮世絵紹介

浮世絵名称:東海道五十三次ノ内 江戸日本橋ノ図
浮世絵作者:香蝶楼国貞
所蔵:国会図書館所蔵

お江戸のシンボル・日本橋

日本橋地域は、江戸時代の政治・経済・文化のセンターでした。 「日本橋」は慶長8年(1603年)、幕府開府の年に架けられました。家康は、江戸を日本の中心地とするため、様々な都市計画をたてて実施します。その一つが日本橋架橋です。日本橋という名前の由来は、「日本国中の人が集まって架けた。この橋は誰が名付けたというわけでなく、諸人が日本橋と呼ぶようになった。」と「慶長見聞集」に書かれています。江戸時代には、20回近く架け替えが行われましたが、殆どが火災による焼失のためでした。

文化3年(1806年)に架けられた橋の記録によると、長さが68.6m、幅は8mで、現在の日本橋に比べ、長さは20mほど長く、幅は1/3弱で、スマートな橋でした。浮世絵に描かれている橋には、擬宝珠(ぎぼし)以外の装飾はありませんが、これは頻繁に架け替えるため、無駄な装飾を省いたからだと言われています。

日本橋やその周辺を描いた浮世絵では、富士山や江戸城(天守閣が無いので石垣と松)が一緒に描かれているものが多くありますが、方向的には無理があります。江戸の象徴を一画面に入れるための作者の工夫だったようです。

浮世絵名称:豊国漫画図絵 日本左衛門
浮世絵作者:豊国
所蔵:国会図書館所蔵

江戸の警察はたったの12名
~同じ時期、ロンドンの警察は3,235人~

江戸時代の庶民は、がんじがらめに縛られていた…私たちはこのように教えられました。 しかし、実際は、江戸の警察(捜査担当の同心)は、天保期~幕末(1830~1867年)で見ると、隠密廻が2名、定廻が1~5名、臨時廻が5~7名の8~14名、南北合わせても16~28名しか居なかったそうです(江戸時代館<小学館>)。これらの同心には、十手をもった目明しが、同心の私的使用人として各々5人ついていただけでした。

一方、石川英輔氏によると、1829年のロンドン警視庁には警察が3,235人も居て、統治が行き届いていたそうです。 江戸が、30人にも満たない警察で治められたのは、10両以上盗むと死罪、放火も死罪という厳しい掟と、泥棒との司法取引があったことと、庶民の日常が、目明しの親分や大家さんなどを世話役とする、庶民の自治によって切り盛りされていたからなのです。

なお、目明しの親分は、悪の裏街道に通じた前科者が多く、“蛇の道は蛇”で、探索活動に従事していました。同心から貰う手当ては小遣い銭程度で、とても生活できませんが、通常は、内職や小店を持ったり、口利きや方々からの付け届けなどで、生活に困ることはなかったようです。中には、職権乱用?恐喝まがいのような事をする悪も居たようです。

浮世絵名称:東都両国ばし夏景色
浮世絵作者:五雲亭貞秀
所蔵:国会図書館所蔵

花火でにぎわう両国の夏

江戸時代、隅田川では5月28日から8月28日が納涼期間とされ、川べりには食べ物屋や夜店が並び賑わいました。両国橋で大花火が打ち上げられたのは享保18年(1733年)、幕府が大飢饉や、疫病による死者の供養のため水神祭を行った際、両国の花火師鍵屋が、余興として花火を打ち上げたのが始まりです。今に伝わる「玉屋~、鍵屋~」の掛け声は、この鍵屋と暖簾分け店の玉屋の競い合いに端を発しています。

当時、隅田川は重要な交通、輸送路だったため、江戸市民が川で遊ぶことは禁止されていました。納涼期間だけは船を出すことが許されました。花火も客の注文で、いつでも打ち上げられました。金持ちは納涼船を借り切り、芸者や料理人を乗せて船から見物、庶民は屋形船や小船で川に出たり、川べりから花火を楽しみました。

江戸で花火が盛んになったのは、平和な世が続き火薬が軍事用に使われなくなり、火薬製造業者が武器に変え、様々な花火を創り出したことと、大名や旗本、商人たちに豪勢な舟遊びが流行ったことも影響しているようです。当時の花火は赤色光と白色光しかなく、色彩は単調だったようです。

浮世絵名称:江戸風俗十二ケ月之内 六月 山王祭
浮世絵作者:楊洲周延
所蔵:国会図書館所蔵

将軍家も一緒に楽しむ天下祭り

6月の日吉山王権現の山王祭、9月の神田明神の神田祭は、江戸っ子の意地と誇りをかけた祭りです。山王権現は将軍家の産土神であり、江戸城を中心に南西の鎮守の神です。神田明神は江戸の自主神、江戸総鎮守でした。このため将軍家や幕府との結びつきが強かったのです。この2つの祭りは幕府の命により盛大に行われ、行列が江戸城に入ることを許され、将軍の上覧が行われたので、「天下祭」「御用祭」といわれました。

江戸の華といわれた天下祭りは、山車、屋台、曳物、囃子、踊りなどの芸能を主体とする祭りで、その時代の伝統と流行が凝縮されたものでした。山王祭は江戸城東側の町々を豪華絢爛な行列が回り、巨大な象の造り物が江戸っ子の度肝を抜いたそうです。

神田祭は神田、日本橋地区が氏子だったため、江戸っ子の意地と面子をかけた威勢の良さが特徴で、36台もの山車(だし)が、地域を練り歩いたそうです。この祭礼は江戸の繁栄振りを諸大名に示し、将軍家の威光を示す絶好の機会でもあったので、祭礼にかかる費用の一部が幕府から助成されていました。

浮世絵名称:江戸百景余興 芝神明増上寺
浮世絵作者:広重
所蔵:国会図書館所蔵

何でも包む万能エコバッグ・風呂敷

風呂敷の語源ははっきりしていませんが、室町時代に風呂で敷いたり衣服を包んだりしたことから来たという説があります。江戸時代になると銭湯が盛んになり、着替えを包んで持っていき、脱衣所で敷物として使い、帰りに荷物を持って帰るという、何でも包めて持ち運びも便利ということで、広まっていきました。

大きなものは畳2枚程度の大きさがあり、火事の場合など、いざというときに、家財道具を入れて逃げる避難道具にもなっていました。できそうもないことを言う「大風呂敷」という言葉は、包むものもないほど大きく広げた風呂敷から来ているようです。

風呂敷の結び方もいろいろとありますが、持ち方も荷物の大きさや形により、抱えたり、担いだり、手に下げたりと、持ち運びも自由にできます。用途に応じていろいろな色もあり、商人は屋号や商標を染め抜いて使っていました。 よく泥棒が唐草模様の風呂敷を担いでいる絵がありますが、泥棒が特に好きな柄ではなく、唐草模様が多かったため、目立たないので使っていた、という見方もあるようです。