そんな寺田本家の酒粕と出会うことで、パン屋さんになった人がいると聞き、「酒粕自然酵母 福ちゃんのパン」を訪ねた。そこは町で一軒だけのパン屋さんだ。
木がふんだんに使われた明るい店内に、バゲットやパンドゥカンパーニュ(田舎パン)ベーグル、惣菜パンなどがきちんと並んでいる。店主の福士智之さんは松戸からこの街に移住してきて、2009年にパン屋さんを開いた。ふふ、彼も外から来た菌というわけだ。
福士さんは、もともとはお米の農家になるつもりだった。天然酵母のパン屋さんで働きながら、不耕起栽培のコメ農家を訪ねて神崎に足繁く通うようになる。そんなある時、偶然に「むすひ」の酒粕を手に入れた。 福士さんは、「こんなん、もらっちゃった」と軽い気持ちでパンを焼いてみた。そしてすっかり驚いた。膨らみもよく味も抜群だった。 「これ、いいね!」と夫婦は顔を見合わせた。酒粕を使ったパン屋さんなんて珍しいし、神崎にはまだパン屋さんがない。やってみよう! と、パン屋になることを決意し、「福ちゃんのパン」を開いた。すぐにそのパンは、「素材の味がする」「お腹にもたれない」と評判になった。 酵母には、寺田本家の酒粕の他、自家製のどぶろくも使う。福士さんは、この店をオープンする前の半年、寺田本家で手伝いをしたので、酒造りの基本を知っていた。だから、「福ちゃんのパン」と「寺田本家」は発酵現象を通じて固く結びついている。
しかし、この小さな田舎町でパン屋さんを続けていくことは、決して簡単ではないと福士さんは苦笑した。
「ここでは主食はあくまでお米で、パンはおやつなんですね。それに、バゲットのようなハード系のパンに慣れていなくて、ふわふわしているパンに慣れているんです」
だから「お兄ちゃんとこのパン、固いね!」と言われてがっかりすることもある。一方で、「孫がここの以外のパン、食べなくなっちゃって」といいながら、買いに来てくれるおばあちゃんもいる。他の町からわざわざ買いに来てくれる人も少なくない。そうやって、今日も福士さんはどぶろくをブクブクさせ、パンを焼く。
最後に、また「福士さんにとって発酵とはいったい何だと思いますか」と聞いてみた。すると、しばらく考えて、フッと「“楽しい”かなあ」と答えた。そう言われれば、店内には、「楽」の漢字を形どったピンクの絵が飾られている。小さな町のパン屋はちょっと大変だという話を聞いた後だっただけに、その答えに気持ちがほわっと温かくなる。
「ご飯を作る時、イライラしていると美味しくない。パンもイライラして急いで作ると膨らまなかったりするんです。状態を見ないで自分の都合で作ってしまうからですね。でも、実際にパンを膨らませるのは、おいらじゃない、微生物なんですよ。だから自分都合にやると、発酵が終わってないのに焼いちゃったりする。でも、うまくやれば、勝手に膨らんでくれる。それって面白くないですか? 面白い、イコール楽しいですよね!」
いいですね! と私は頷いた。それは、寺田本家の優さんの言葉とも通じていた。だから、焦ってもしょうがない。ゆっくり、ゆっくりと瞬間を楽しめばいいのだ。
その時、ちょうどお客さんが入ってきたので、私も幾つかのパンを買い、お店を後にした。
未知の細道の旅に出かけよう!
発酵の里こうざき(日帰り)
予算の目安 お食事代やお買い物代など
川内 有緒