未知の細道
未知なる人やスポットを訪ね、見て、聞いて、体感する日本再発見の旅コラム。
63

馬と共に歩んでいきたい

女手ひとつで作られた美しき馬森牧場へ

文= 川内有緒
写真= 川内有緒
未知の細道 No.63 |20 March 2016
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#10このまま一緒に歩いていければ

開拓を始めた当初は、1年半くらいで牧場を完成できると予想していたが、9年目に入った今も作業は続く。馬に乗ることも少しはうまくなったが、自分がうまくなることには、さほどこだわっていない。それよりもお客さんが楽しく安全に乗ることにこだわりたい。
 それにしても、牧場を経営するのは経済面でも楽ではない。「去年の確定申告は280万円の赤字でした」とおかしそうに笑う。それでも、お客さんをむやみに増やすことには興味がない。自分自身も、馬たちも、そしてお客さんもストレスを感じないペースを大切にしたいという。

 午後になると、私も馬に乗せてもらうことにした。
 まずは教えられた通りにまたがる。おっかなびっくり脇腹を軽く足で押すと、馬は前に進み始めた。わあ、ちゃんと指示が通じたぞ。
 馬の背の上は、想像よりもゆらゆらとして不安定だ。その不安定さこそが、ああ、自分は生き物に乗っているのだと実感させられる。車のCMで時々「人馬一体」という言葉を聞くが、車と馬はまるで違うじゃないかと今さら思う。馬は馬で、私の一挙一動を感じ取ろうとする。私もなんとか馬の動きについていこうとする。これは、車なんかよりよっぽど難しいだろうなと思いつつ、馬場を何周かして、短い乗馬体験を終えた。

 すると菅野さんが、「ちびっこも馬に乗せちゃおう!」と言うので、「おお、ぜひ!」という展開になった。
 白黒模様のポニーに乗せられた娘は、「えっ本当に?」という驚いた顔をした。最初は今にも泣きそうな顔になり、「もう降ろして」と手をこちらに伸ばしてくる。「大丈夫だよ、大丈夫だよ」と声をかける。
 馬が一歩前に進むと、今度はきょとんとした顔に変わった。そして、大丈夫なのだと気付くと、ふわっと顔がほころんだ。そして、手綱を掴んだまま、満面の笑みで「わあい」と空を仰いだ。彼女は全身で馬と一緒にいる喜びを表していた。私はそれを見ただけで、ああ、私たち、ここに来られて本当に幸せだねえ、と感じていた。

 そうして、働きを終えた馬たちは、山々が臨める放牧地に戻って草を食み始めた。気がつけば、もう夕日の時間が始まろうとしている。
 私たちは、ベンチに座ってぼおっと景色を眺めた。菅野さんの元には、この牧場で生まれた仔馬のコメリが駆け寄り、彼女の肩に頭を乗せて甘えている。オレンジ色の日差しを浴びてじっとしている数頭は、昼寝をしているのかもしれない。
 馬のいる夕暮れ。それは、どこか懐かしいような日本の風景だった─。

 牧場から帰って数日後、ふと思いついて菅野さんにメールを出し、「『人馬一体』を感じたことはありますか」と聞いてみた。
 その答えはすうっと胸にしみ込んできて、思わず何度も読み返していた。
「人馬一体、難しいですね。私自身がまだその域に達していません。柵の外で馬に乗り、完全に彼らの意識を支配することは、とても難しいです。しいて言えば私の歩みに、その大きな体の動きを合わせてくれる瞬間でしょうか。馬が自分を扱う人を認め、自らの意思でついていくとき、それが人馬一体。そのまま一緒に歩いていけたら、たとえその背に乗らずとも私にとっては十分幸せなことです」

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未知の細道 No.63

川内 有緒

日本大学芸術学部卒、ジョージタウン大学にて修士号を取得。
コンサルティング会社やシンクタンクに勤務し、中南米社会の研究にいそしむ。その合間に南米やアジアの少数民族や辺境の地への旅の記録を、雑誌や機内誌に発表。2004年からフランス・パリの国際機関に5年半勤務したあと、フリーランスに。現在は東京を拠点に、おもしろいモノや人を探して旅を続ける。書籍、コラムやルポを書くかたわら、イベントの企画やアートスペース「山小屋」も運営。著書に、パリで働く日本人の人生を追ったノンフィクション、『パリでメシを食う。』『バウルを探して〜地球の片隅に伝わる秘密の歌〜』(幻冬舎)がある。「空をゆく巨人」で第16回開高健ノンフィクション賞受賞。

未知の細道とは

「未知の細道」は、未知なるスポットを訪ねて、見て、聞いて、体感して毎月定期的に紹介する旅のレポートです。
テーマは「名人」「伝説」「祭り」「挑戦者」「穴場」の5つ。
様々なジャンルの名人に密着したり、土地にまつわる伝説を追ったり、知られざる祭りに参加して、その様子をお伝えします。
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