富久丸さんが田中家で三味線を披露したとき、お客さんから「小さい頃からやられてるんでしょう?」という質問が上がった。よく聞かれることなのか、富久丸さんは慣れたように首を振った。
「実は、大人になってからなんです。三味線を始めたのも30歳近くなってから……」
聞くと所作の勉強のために日本舞踊を習っていた富久丸さんは、お師匠さんからの誘いで芸者になった。しかも三味線のお稽古を始めたばかりのときから、お休みするお姐さんの代わりにお座敷に入らなくてはならない時期があったそうだ。うまくできていないとわかっているのに、お給料はいただけるというもどかしさ。最初の数年は、食事以外は常に三味線を弾き続ける生活だった。
「本当にしんどかったですね。お姐さん方と一緒に出て失敗しても怒られなくて、余計に辛くて。必死にお稽古しました」
そんな過去があるからこそ、富久丸さんが新人の富久駒さんを思う気持ちも強い。最近の若者、というイメージがあったという富久駒さんが「芸者になりたい」と言ったとき、正直不安もあったという。
「『本当にできるのかな』って。でも富久駒ちゃんは自分で踊りの先生を探して来たり、必要な道具も調べたりして、意志の強さを感じます。このあいだ初めて2人でお座敷に入ったんですが、まだまだ心配だと思っていた踊りも一生懸命お稽古して上達していましたね」
まだ若い富久駒さんには、これからやらなければいけないことや覚えることがたくさんあるのだろう。きっとその道程は楽ではないし、横浜芸者として手探りな部分もある。芸者の見習い道中は、まだ始まったばかりだ。
「まだ自信がないのは当たり前。でもみんな同じ道を通ってきたから安心してほしい」と、富久丸さんも自身の経験を振り返った。
横浜に来たならお座敷遊びを、と人々が思うようになれば、横浜芸者や料亭の数がまた増えることもあるだろう。かつてモダンな芸者の花街として知られた横浜は、次世代の横浜芸者たちによって今度はどんなふうに進化していくのだろうか。600人を超える芸者衆も、黒塀が立ち並ぶ風景も、今の横浜にはもうないが、新たに生まれた横浜芸者3人は、着実に復活への道を進んでいる。
ウィルソン麻菜