未知の細道
未知なる人やスポットを訪ね、見て、聞いて、体感する日本再発見の旅コラム。
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20年の時を経て蘇った!

横浜芸者、復活への道

文= ウィルソン麻菜
写真= ウィルソン麻菜
未知の細道 No.110 |25 March 2018
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#8芸者復活の先にある横浜

三味線を習い始めた頃は楽譜がなかったため、感覚で身につけなければならなかったそうだ。

 富久丸さんが田中家で三味線を披露したとき、お客さんから「小さい頃からやられてるんでしょう?」という質問が上がった。よく聞かれることなのか、富久丸さんは慣れたように首を振った。

「実は、大人になってからなんです。三味線を始めたのも30歳近くなってから……」

 聞くと所作の勉強のために日本舞踊を習っていた富久丸さんは、お師匠さんからの誘いで芸者になった。しかも三味線のお稽古を始めたばかりのときから、お休みするお姐さんの代わりにお座敷に入らなくてはならない時期があったそうだ。うまくできていないとわかっているのに、お給料はいただけるというもどかしさ。最初の数年は、食事以外は常に三味線を弾き続ける生活だった。

「本当にしんどかったですね。お姐さん方と一緒に出て失敗しても怒られなくて、余計に辛くて。必死にお稽古しました」

 そんな過去があるからこそ、富久丸さんが新人の富久駒さんを思う気持ちも強い。最近の若者、というイメージがあったという富久駒さんが「芸者になりたい」と言ったとき、正直不安もあったという。

「『本当にできるのかな』って。でも富久駒ちゃんは自分で踊りの先生を探して来たり、必要な道具も調べたりして、意志の強さを感じます。このあいだ初めて2人でお座敷に入ったんですが、まだまだ心配だと思っていた踊りも一生懸命お稽古して上達していましたね」

 まだ若い富久駒さんには、これからやらなければいけないことや覚えることがたくさんあるのだろう。きっとその道程は楽ではないし、横浜芸者として手探りな部分もある。芸者の見習い道中は、まだ始まったばかりだ。

「まだ自信がないのは当たり前。でもみんな同じ道を通ってきたから安心してほしい」と、富久丸さんも自身の経験を振り返った。

 横浜に来たならお座敷遊びを、と人々が思うようになれば、横浜芸者や料亭の数がまた増えることもあるだろう。かつてモダンな芸者の花街として知られた横浜は、次世代の横浜芸者たちによって今度はどんなふうに進化していくのだろうか。600人を超える芸者衆も、黒塀が立ち並ぶ風景も、今の横浜にはもうないが、新たに生まれた横浜芸者3人は、着実に復活への道を進んでいる。

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未知の細道 No.110

ウィルソン麻菜

1990年東京都生まれ。学生時代に国際協力を専攻し、児童労働撤廃を掲げるNPO法人での啓発担当インターンとしてワークショップなどを担当。アメリカ留学、インド一人旅などを経験したのち就職。製造業の会社で、日本のものづくりにこだわりを持つ職人の姿勢に感動する。「買う人が、もっと作る人に思いを寄せる世の中にしたい」と考え、現在は野菜販売の仕事をしながら作り手にインタビューをして発信している。刺繍と着物、野菜、そしてインドが好き。

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「未知の細道」は、未知なるスポットを訪ねて、見て、聞いて、体感して毎月定期的に紹介する旅のレポートです。
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様々なジャンルの名人に密着したり、土地にまつわる伝説を追ったり、知られざる祭りに参加して、その様子をお伝えします。
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