ぼくは日雇い労働をやってみようと思った。
「過酷」と一口に言われる労働環境はどれほどのものなのか。その環境も変化しているのではないか。それを確かめたかったのもあるが、ぼく自身も会社を辞めて、明日を何で食いつなぐか分からない身である。単なる好奇心ではない思いがあった。しかし、この試みは失敗した。
最初に訪れたのは「寿町勤労者福祉協会」。10年前はここにハローワークがあり、寄せ場があり、売店があり、診療所があり、集会所があり、銭湯があり、あらゆる日雇い労働者が集まる寿町の心臓部だった。しかし。
取り壊されていたのである。
耐震性の問題とのことだが、詳しく聞くと、日雇い労働を紹介してもらえる場所なら、まだ寿町に残っているという。住所を聞いてさっそく訪ねてみた。
「日雇いの仕事をさせてもらえませんか?」
窓口で聞いてみると、受付の方はとても親切に対応してくださった。しかし、「紹介できる仕事はない」というのが結論だった。
理由はやはり労災である。高いところから落ちるような危険ではない。何も知らずに手を伸ばしたら、指がなくなっていた。そういうタイプの危険があり、素人が手を出せる仕事ではないのだという。現代は建てるより壊す時代。求人は「解体作業」ばかりで、どれだけ若くて力があっても、それがたとえ、優秀なトビ職の人であっても、ありつける職がないのである。
たしかに、目の前に貼ってある求人の紙をよく見ると。
「XXX建設、一般住宅解体工事、2名、8:00~17:00、10,000円」
「XXX商事、廃棄物の収集および2tパッカー車運転、1名、8:00~15:30、10,000円」
「XXX商事、廃棄物の収集その他雑作業、1名、8:00~15:30、8,000円」
なるほど、現代の日雇い労働とは誰でもできる仕事じゃない。とはいえ、はじめは誰だって未経験者。そういう場合は何からはじめればいいのか。聞いてみると、そういう人はそもそも寿町には来ないという。しかし、高齢者の方であれば専門の求人を紹介する窓口もあるし、若者であれば、横浜市のハローワークを紹介して職業訓練からはじめることが多い。
なんでも、昔は未経験でも止むに止まれぬ事情を聞いて送り出していたこともあったそう。しかし、元請けからクレームが入り、求人が来なくなってしまった。ぼくのような素人が無理を言って働かせてもらうことは、たくさんの働き口を失わせてしまうことにつながるのだ。
その代わりに、というわけではないだろうが、寿町の成り立ちを話してくださった。
戦後まもなく、横浜港のある桜木町に全国から日雇い労働者が集まってきた時代があった。桜木町にハローワークがあり、米国から船で運ばれてくる支給品を荷下ろしするのに、毎日1,000人の働き手が必要だったからだ。ズタ袋を背負って人力で荷物を運ぶ港湾労働である。しかし、仕事にあぶれた労働者たちは路上生活を余儀なくされていた。
しばらくすると、ある契機がやってくる。米軍が接収していた寿町が返還されたのだ。桜木町からほど近い平地に、突如として、広大な空き地が生まれたわけである。寿町にハローワークが移転すると、労働者たちも移動する。そこに簡易宿泊所が1軒できると、10年でたちまち80軒まで急増した。同時に高度経済成長時代に突入。建築ラッシュで日雇い需要は増すばかり。石炭から石油への転換期とも重なり、多くの炭鉱夫も寿町に流れてきた。
しかし、コンテナやクレーンが普及するにつれて港湾労働の求人が減っていき、オイルショックをはじめとする不況によって土木・建築の求人も激減すると、若い労働者が集まらなくなってくる。残った労働者の高齢化も進んでいく。そうして働き手自体が減り、住人の8割以上が生活保護の受給者となっているのが寿町の現状だという。
ちなみに、ぼくが訪れたのはハローワークではない。職員の方も公務員ではないらしいのだが、実に親身に接してくださった。日雇いの職業紹介所といえば、ダークな印象があったのだが、そんな偏見はきれいに払拭されてしまった。
あるいは、そう簡単に言ってしまってはいけないのかもしれない。また別のある人は話していた。その場所以外にも、裏の求人があるにはあると。どこに働きに行くか分からないような求人を立てられて、気がついたら福島の放射線の現場にいた、なんてことも実際にあったという。
ライター 志賀章人(しがあきひと)