新潟港から一時間ばかりの船旅で、着いた島の空は見事に青かった。タクシーに乗り込むと、水を張った見事な田んぼが見えてきて、稲の苗が強い風にたなびいていた。
タクシーの運転手さんは、「お客さん、観光じゃないでしょう。取材かな? なんとなくわかるんだよね!」と声をかけてきた。
佐渡でワインを作ろうとしている人に会いにきました、と答えると「へえ! ワイン? そんな人がいるんですか。まあ、佐渡はなんでも育つからねえ」と運転手さんは、うん、うんと納得している。そして、佐渡島は暖流と寒流がぶつかるところに位置するので、気候が安定していて、野菜も果物も驚くほど多くの種類が育つのだと教えてくれた。
今回の目的地である「La Barque de Dionysos (ラ・バルク・ドゥ・ディオニゾス)」は、世界的に有名なワイン醸造家、ジャンマルク・ブリニョさんとその奥さんの聡美さんが開いたビストロである。二人は、2012年の秋に、11ヶ月の赤ちゃんを連れ、フランスから移住してきた。
タクシーの窓から、体格のいい男性が道路脇で手を振っているのが見えた。「ハロー!」とチャーミングな笑顔の背後には、煉瓦作りの感じの良い家があった。それが、彼らのビストロだ。
店内はアットホームな雰囲気だった。色とりどりのタイルに、広いバーカウンター、大勢がいっぺんに食事ができるようなテーブル。壁に切り取られた窓からは、小さく海が見えた。カウンターの奥から、聡美さんも「こんにちは!」と挨拶をしてくれる。
自家製レモネードを飲みながら、ジャンマルクとテーブルに向かい合う。聞きたいことはたくさんあった。なぜ本場フランスを去って、あえて佐渡を選んだのか。実際ここでワインを作れる見込みどれくらいあるのか。何しろ、この島にはワインを作っている人は一人もいないのだ。
「みんな不思議がるけれど、佐渡は自然がすばらしくて、すごくいいエネルギーに満ちている。あちこちに花が咲いているんだけど、フランスで見るより大きいんだよ」
そういう彼は、心から満足そうに見えた。
佐渡の港に降り立った時、「いい気分だった」と彼は思い出す。
「ここに来たのは冬の始めだったけど、すぐに好きになったよ。冬にその土地が好きなのは大切だよね。気候がいい時にそこを好きになるのは簡単だけど、厳しい時に好きになれればもっといいだろう?」
え、ちょっと待ってください。もちろん、移住以前も佐渡に来たことがあったのですよね?
「いや、初めてだよ。インターネットとかで調べて、ここに決めたんだ」
聡美さんも、「そうそう」と気軽に肯定した。「私たちすべて処分して、スーツケース4つだけで来たんですよ」
私は絶句した。見知らぬ島に、外国からいきなり移住? しかも、彼らがやろうとしているのは、広大な土地と何年という時間を要するワイン作りなのだ。
「それは、けっこうクレージーなことですね……!」と私は遠慮も忘れて言った。
「ノー。そんなことない。僕らは自分が何を探しているのか分かっていたからね」
と彼はあっさりと言う。
探していたものとはいったいなにか。どうやって佐渡にいきついたのか。長い話を聞いてみれば、全てがストンと腑に落ちるのだが、それにはまず、彼らのフランス時代から話を始めなければならない。
ジャンマルクは、フランスの北部の海岸地域、ノルマンディの薬剤師の家に生まれた。海岸や野山をかけまわっていた元気な少年が、ワイン作りに興味を持つようになったのは、15歳の時だった。
「ワインを作りたいって両親に言ったら、猛反対されたよ。もっと真面目な仕事をつけって」
その後、別の仕事に就いたが、結局はワイン作りの夢を諦められなかった。
28歳から学校に通い直し、ぶどう栽培とワインの醸造の学位を取得。その後は、ボジョレー、そしてシャンパーニュ地方で栽培や醸造の責任者として働いた。
「そこでの経験は勉強にはなったけど、ワイン生産の“工業的”な部分には興味が持てなかったな。いつの間にかワイン作りにヘビーな機械化が進んで、ワインは工業製品みたいになってしまったんだ」
彼が作りたかったのは、フランス語で“ヴァン・ナチュール”と呼ばれる、ナチュラル・ワイン。簡単にいってしまえば、有機栽培のぶどうを使い、添加物などを入れず、できる限り人工的・化学的介入をせずに、100%ぶどうだけで作るワインだ。
彼が言う通り、現代のワイン生産は非常に工業化されている。除草剤や化学肥料の散布から始まり、機械による乱暴な収穫、酸化防止剤や添加物などの使用、培養酵母による発酵など、あらゆる場面で機械と化学物質が幅を利かせる。また、中には有機ぶどうを栽培しつつも、添加物や培養酵母を使って醸造する“オーガニックワイン”も少なくない。
彼が作りたいものは、何も足さない、何も引かないワイン。それは、究極的にシンプルで、究極的に難しいものなのである。
2004年、ジャンマルクは、独立して自分のワイナリーを持つことを決意。アルプス山脈の麓のジュラ地方に、ワイン畑を購入した。
そこは、スイスの国境にも近く、高い山に囲まれ、冬が長くて厳しい場所だ。冷涼な隔絶地帯だからこそ、独特の昔ながらの農産品作りが今でも脈々と受け継がれている。それは、6年以上熟成させて作るヴァン・ジョーヌ(黄色いワイン)や、冬以外は放牧されている乳牛の乳で作るコンテ・チーズ。彼がナチュラル・ワイン作りを始めたのは、そんな伝統が色濃く残る地方だ。
「人はワイン作りをロマンチックなものだと考えがちだけど、ぜんぜんロマンチックじゃない。とてもタフな仕事だ。ワイン畑を持った当初は、朝6時に起きて、夜中の3時まで働たもんだよ。でも、この仕事が大好きだ。特に収穫の時期は最高だ。他の時期の10倍くらい大変で、10倍くらい楽しいんだ」
そうして彼は、自分の畑で栽培したドメーヌ・ワインを作る一方で、他の地域のぶどうでも醸造をしてみたい と“ヴィニブラート”という名のネゴシアン・ブランドも立ち上げた(ネゴシアン・ブランドは、他の農家が育てたぶどうを醸造して作るワインのこと)。
彼はおいしいワインを作るために、他の醸造家がやろうと思っても真似できないことを積極的に試した。長い時間をかけてぶどうを熟成させたり、赤ワインに白ワイン用の品種のぶどうをブレンドしたり。また、通常は異なる品種のぶどうはタンクの中でぶどうを絞ってからタンクの中で合わせるが、彼は実のまま品種のぶどうを一つのタンクでマセレーション(醸し)する手法も行った。
その独特のワイン作り中で、大切にしていることは、「自由でいることだ」とジャンマルクはゆったりと話した。
「もし、いいワインを作るための“レシピ”があると考えているなら、それはすでに失敗だ。今年のぶどうと去年のぶどうは違う。だから、去年と同じものを作ることなんかできない。それなのに、工業製品のようにいつも同じワインを作ろうと考えたら、必ず失敗してしまう。自由な感覚を信じて、自然に委ねる。ワインの生産を行う人間も、その大きな自然のプロセスのひとつなんだ」
そもそも、添加物を使わないナチュラル・ワインを美味しく仕上げるのは、曲芸的に難しい。常に畑を蝕む病気、酸化や劣化など多くのリスクと常に隣り合わせだ。天然の酵母で発酵しながら、酸化防止剤を使わないワインは、まるで生き物そのもの。扱いを少し間違えれば、生き物は化け物になる。だから、フランスにおいて、ナチュラル・ワインはほんの0.1〜0.2%にすぎない。
その一方で、彼は数々の伝説的なワインを世に送り出し、多くの熱狂的なファンがついた。コレクターの間では、手に入れることの困難さから“ユニコーン(伝説上の一角獣)”と評されるものも。そして、ジャンマルクは、その類稀なる醸造センスから、“天才醸造家”と呼ばれるようになった。
それでも、彼はワイン作りをこんな風に言う。
「毎年、毎年、飲んだ人が『ああ、美味しい!』と言ってくれるまで、ずっと不安だ。ぶどうの状態は毎年違うのに、チャンスは一年に一度しかない。一年に一度きりだよ?」
ジュラでは、2006年くらいからよく雹が振るようになり、ぶどうの収穫量が少ない年もあったという。
「だから、誰かに“君はいつも綱渡りしているようなもんだね”って言われたこともあるよ」
綱渡り、というのはワインの味のことだけではなく、その生活のことでもある。ワイン・メイカーとして成功しながらも、日々の生活は厳しいものだったと振り返る。
「ワイン作りというのは、ものすごくお金がかかる。資材にセラーの維持、醸造や保管のスペース。ぶどう畑自体も高額だ。僕が知る限り、ナチュラル・ワインを作って金持ちになったやつはいないよ。他の“ケミカル”を使ったワイナリーほどたくさんワインが作れないから」
ワイン作りにおいては魅力的だったジュラ地方だが、ジャンマルクがこの場所を好きになることはついになかった。いつの頃からか彼はジュラを離れることを考え始めていた。
ジャンマルクはあまり多くは語らなかったが、聡美さんはこんな風に解説してくれた。
「ジュラは冬が長くて、霧がずっと立ち込めているようなところ。それに、海もないから、海の近くで育った彼には辛かったんじゃないかな。文化的にも保守的なところで、みんな土地にしがみついてる。そんな中で、他の土地からやってきて、100%オーガニックでやる、というのは風当たりが強かった」
なるほどなあ、それは息苦しいだろうなと思った。彼のナチュラル・ワイン作りは、まるでクラシック音楽ホールに、ロックンロールで殴り込んだようなものなのかもしれない。日本の田舎特有の閉塞感を思い出すと、納得できる気がした。
その時に彼が行きたいと願ったのは、2009年に出会って結婚し、ワイン作りを一緒にしてきた聡美さんの故郷、日本だった。若い時からパリに住み、フルート奏者として活躍していた聡美さんは、ナチュラル・ワインが大好きだった。ある時ジャンマルクのところにワインを飲みに行ったことで、聡美さんの人生は、大きく変わる。すぐに聡美さんはワイン作りの大切なパートナーとなった。
そして、息子さんが生まれたことを機に、家族で日本に移住することを決意。その時ジャンマルクは、「もう二度とフランスに戻らなくてもいい」というほどの気持ちだったという。
日本に行くことを決めたブリニョ一家。それではいったいどこへ、というのが次なる問題だ。全くの素人考えでは、山梨や長野あたりがワイン作りに適しているのかなと思うのだが、そう単純でもないのだと聡美さんは答えた。 「ワイン作りが盛んなところでは、なかなか自分たちだけがオーガニックでやるというのは難しい場合もあるんです。だから、できれば、街をあげて環境に配慮した農業に取り組んでいるようなところが理想的だったんですが、そういう場所は九州が多くて、彼の知っているワイン作りには温かすぎた。気候的には、ジュラと似ているところが良かった」
北海道か佐渡島か、というところまで絞り込んだ時点で、がぜん佐渡に興味がわいた。特別天然記念物の朱鷺(とき)が住める農地作りを、と減農薬による米作りを町ぐるみで促進している。そして、その特殊な気候や自然環境のおかげで、幅広い農作物が作れることもわかった。そんな場所でできるぶどうはどんな味になるだろう?
ちょうど佐渡島で、無農薬・天日干しのコシヒカリを作っている人を発見し、メールで意見を聞いてみることに。その返信は、明るいニュースをもたらした。
——土地はたくさん余っているし、有機でやりたいのならば、ここは面白いところですよ——
そうして、ワイン畑を売却し、スーツケース4つでこの地に降り立った、というわけだ。
それにしても土地を一から開墾し、ぶどう畑を作り、収穫できるようになるのは長い道のりだ。最初のワインが飲めるのは、「早くても4年後」。都会から来たせっかちな私には、もう見果てぬ夢のようにすら感じてしまう。しかしながら、その間、全く彼のワインが飲めないわけではない。ジャンマルクは今でも年に数度フランスに戻り、デンマーク人のパートナーと共にワインの醸造を続けている。 「佐渡でのワイン作りは長期的な計画だ。その一方で、佐渡にはワインバーはないと聞いたし、だからまずは最初のステップとしては、菜園で野菜を育てて、ビストロを開くことにしたんだ。この菜園作りは、僕にとって本物のアドベンチャーだよ!」(ジャンマルク)
移住して1年ほどはビストロ用の物件を探したり、有機農法でできる農地をさがしたりして時間がすぎていった。やがて、人づてで良い場所が見つかり、去年の春にはワイン・ビストロをオープンした。
ここでサーブされるのは、彼らが信頼する生産者によるナチュラル・ワインだ。聡美さんが、とれたての魚をグリルし、旬な野菜でサラダやスープを作る。使う野菜は、基本的に自分たちの菜園で作ったもの。または、佐渡産がほとんどだ。お客さんは島外からのナチュラル・ワインのファンが大半だが、地元の人も特別な日にやってくる。 「フランスではワインだけを作っていたので、今はいろいろな野菜を作るのが、とても楽しいんだ。レタス、パセリ、ナス、豆、トマト、ズッキーニ、かぼちゃ、ピーナツ……まったく驚きだよ!ここはなんでも育つんだ。僕はそれまで、いい“ワイン・メイカー”だったけど、必ずしもいい“ファーマー”とは言えなかった。だから今、ファーマーになる勉強をしているのさ」
ぶどう畑の方は、これから木を植えるという段階で、土地を見つけて整地をしているところだ。ただ、今後も大規模なぶどう畑を作るつもりはない。 「せいぜい3ヘクタールもあれば充分だ。もし、忙しくなりすぎれば、自分の畑の“奴隷”になってしまう。僕は、雨が降ったら休むとか、今日は家族と一緒にゆっくり過ごそうとか、そういう自然なリズムで生きていきたい。菜園が忙しくない時は、朝早く起きて釣りにいくこともあるよ」
夜になると、友人達がたくさん集まってきた。誰もが釣ったばかりの魚や煮物など、美味しそうなものを持参している。こんな風に、たまに近隣の気が合う人同士で集まってご飯を食べるのだそうだ。
人々は、魚をどう料理しようかと相談しながら、さばき始めた。その最中にも、ジャンマルクは「はい、どうぞ!」と全員分のワイングラスに赤ワインを注いだ。
私にも「どうぞ」とグラスを手渡すと、すぐに自分も飲み始めた。あ、もう飲んでいいのか、と嬉しさと共に緊張感がわきあがる。
それは、明るい色をした赤ワインだった。南フランスで自然栽培されているぶどうを購入して醸造したものだそうだ。白地のシンプルなラベルに“ハードデッシュ”と書かれている。グラスを掲げると、鮮やかな赤の向こう側に、景色が透けてみえた。
最初に圧倒してきたのは、そのフレッシュな香りだ。幸せに育てられた果実の香りが、ふわりと辺りに広がる。一口含むと、わずかな発泡がシュワシュワと優しく弾けたかと思うと、のどの奥まですっと流れるように落ちていった。柔らかな雨が乾いた大地に染みこむように、体に馴染んで、緊張感がほどけていく。こうして、幸福な一夜が始まった。
一杯飲み終わると、ジャンマルクは惜しむことなく、「さあ、飲んで!まだあるから」と次から次へと、みんなのグラスに注ぎ続ける。
「ワインはテーブルを囲んでみんなで飲むものだからね」という彼は、とても楽しそうだ。私は実際の彼に会うまでは、勝手に“孤高の醸造家”というイメージを持っていたが、こうしてみると“孤高”という言葉はまったく似合わなかった。
ジャンマルクは、仲間のひとりを「佐渡で一番すごい料理人だ」と紹介してくれた。その斎藤和郎さんは、生粋の佐渡生まれ。東京の一流そば屋でそば打ち職人として十年の経験を積み、奥さんの佳子さんと去年Uターン。蕎麦懐石の店「蕎麦 茂左衛門(もぜむ)」を開いた。打ちたての蕎麦と旬の食材を使ったお料理が味わえるお店だ。
古民家を利用した美しい佇まいの「蕎麦 茂左衛門」
お蕎麦とハチメの酒蒸し。アクアパッツアの調理法で仕上げた
その斎藤さんに、「彼のワインを初めて飲んだ時、どう思いましたか?」と聞いてみた。
「これがワインなの? 僕が知っているワインと全然違う、と感じましたね。それまで僕が知っているワインは、重くて“どうだ、ワインだ!”と主張している。でも、ジャンのワインはもっと軽やかだった」
それを聞いたジャンマルクは、「イエス。ワインはただの飲み物さ(ジャスト・ア・ドリンク)」と、グラスを軽く掲げた。
ジャンマルクが作るワインのラベルは、とてもシンプルだ。白地にシンプルなフォントで、ワインの名前が入り、その上に“Vin de France(フランスのワイン)”。そして、下にぶどうの栽培者と醸造した自分たちの名前が印字されている。そのほかは、金箔の文字も、シャトーの絵もない。そして、もうひとつ入っていないものは、産地名である。
フランスにおいてワインのラベルに、ボルドー、ブルゴーニュなどの産地名を入れるには、AOC(原産地統制呼称)と呼ばれる認定を受ける必要がある。ワインの産地の伝統や個性を守るための制度で、認定を受ければ“ボルドー”などとラベルに印刷できる。しかし、認定を受けるには、逆にその産地特有の品種や栽培方法、収穫量、醸造の方法などの規制を厳格に守る必要がある。
ジャンマルクは、ジュラで醸造を始めた翌年には、この認定への申請をやめている。理由は、簡単に想像がつく。たぶん、ぶどうの品種や既存のルールに縛られず、自由なスタイルでワインを作りたかったからだろう。その白いラベルは、自由のスピリットの証なのだ。
私は、少し酔っ払いながら「人はあなたを天才というけれど、それはどうしてだと思いますか」と聞いてみた。
「さあ……なんでだろう」と彼は笑って「それは、“感覚”を信じてワインを作っているからかな」と答えた。
「僕は、自然を信頼している。自然はよくできていて、とても賢い。何かを壊したり、コントロールしたりしなくても、自然が全てをやってくれるんだ。大事なのは、よく観察することだ。ぶどうの状態、果汁の味、香り、酵母やバクテリアの動き。発酵の状態。自然は必ずしも“大きな声”をあげない。だからテイストして、匂いをかいで、観察する。それで、いつ収穫するか、いつプレスするか、いつボトリングするか。自分の“フィーリング”で決めるんだ」
ジャンマルクは、そんな話をしながらも、次々とワインを奥から持ってきて、宴はますます盛り上がる。夜が更けると、話題は、佐渡おけさや島に自生する未知の食材など、色々なことに及んだ。そんな佐渡一色な会話を聞きながら、みんな本当にこの島を愛してるんだなあと感じた。
その時ふと、聡美さんが昼間ふっと言った言葉が思い出された。
「ワインの話をするときに、みなテロワールという言葉を使うでしょう」
テロワールとは、フランス語の“テール(土地)”から派生した言葉で、ワインに現れる土地の特性や風味のことを指す。
「テロワールは、水はけとか土壌の状態のことを指すと思っている人もいるけれど、テロワールには周囲の自然環境や、食べ物、文化や住んでいる人も含めての“テロワール”なんですよ」
そういう土地をとりまく全てが一杯のワインにこめられる。だから、二人は、この土地の野菜を食べ、友人との時間を楽しみ、伝統の踊りを習うことを楽しむのだ。そうか、そうか……と納得しながら、ワインを気持ちよく飲み続けた。いつしか、かなり酔っ払ってきて、12時をまわるころに宿に戻った。
翌朝のことだ。6時きっかりに目が覚めた私は、頭が実にすっきりしていることに驚いた。とても昨日お酒を飲んだような感じがしない。むしろ、エネルギーがチャージされたような感覚だ。
ビストロに行ってみると、前日の食事会が終わったままで、テーブルの上には空になったボトルが何本も載っていた。聡美さんは、「昨日はすごくもりあがっちゃって」と半ば苦笑しながらコーヒーをいれてくれた。今の時期は、朝から菜園での作業が忙しいらしく、「ジャンマルクたちは、もう畑に出ているから行ってみましょう」と聡美さんは車に乗り込んだ。
ジャンマルクは、照りつける日差しの中で汗を書きながら農作業をしていた。最近、東京から佐渡に移住してきたという下川淳也さんも作業を手伝う。下川さんは、これからジャンマルクにワイン作りを習いたいそうで、ジャンマルクもそれを歓迎している。
「もし僕からワイン作りを習いたいという人がいれば、誰でもここに来たらいい。僕は、ワインの作り方を次の世代に伝えたいんだ。人が食べる物を作るというのは、尊い仕事だ。おいしい食べ物があれば、人は幸せに感じる。だから、農業は本当に素晴らしい仕事なのに、今の日本の若い人はそう考えない人が多いのかな。みんな、この島を去っていってしまう。だから、僕はワイン作りを通じて、農業をすることの楽しさを伝えたいよ」
そんな話をしながら、彼は一通りの作業を終え、こう言い出した。
「昨日遅くなっちゃったおかげで、今朝はすでに予定通りに物事が運んでいないんだ。だから、もうここまででいいや。今日はもう君の船が出る夕方まで、すべて遠くから来た君のために時間を使おう。さあ、今から何がしたい?」
今の時期は菜園の作業が忙しいと聞いていたので、その心意気にすっかり感激しながら私は、「それならば将来のぶどう畑に連れていってください!」と頼んだ。
彼は自ら車を運転して、ぶどう畑の予定地へ連れていってくれた。車を降りると、そこは丘陵地で、視界の先には山があり、優しい風が吹いていた。ここに2500本のぶどうの木を植える予定だという。品種は甲州だ。 「まずは、日本のぶどうの甲州から始めたい。この丘陵地にぶどう畑を作ってみるよ。菜園の方にも何本かぶどうの木を植えてみようかな。面白くなる気がする。まるで森の中で育てるみたいに、他の木につるを巻きつけたり、自然な形でぶどうの木を育ててみたいと思ってる」
彼は、想像をめぐらせてワクワクしているようだった。 「どんな風にやってもいいんだよ。何しろ、ここは自分たちの場所だからなんでも試せるんだ」
ここの木々の合間に一斉にぶどうがなったら、独特の風景になるだろう。島の人はそれを見て驚くだろうか。それとも、ここは佐渡だから当たり前だと思うのだろうか。そんな想像をしながら、しばらく私たちは辺りを歩き回った。 「たくさんの人があなたの元に集まってきて、みんなでワインを作って、100年後にはこの島が一大ワインの産地になるのかもしれないですね。そうしたら、『ここから伝説が始まった』ってモニュメントが建つかも」
そう私が言うと、「はは、どうだろうねえ」と彼は笑った。
「ねえ、今年はぶどうの木を植えるんですよね?」
「そうだねえ。植えるかもしれないし、植えないかもしれない。菜園が忙しければ、ぶどうの木は来年でもいいんだ」
私は、また驚いた。てっきり一刻も早くワインを作りたいと思いこんでいた。 「そう、わからない? 僕はぜんぜん急いでいないんだよ」
彼は、ゆったりと微笑んだ。そして、ほら、こっちに来てごらん、見晴らしが素晴らしいよ、などと言うのだった。
急いでいないという言葉通り、彼は私に「さあて、次はどこに行く?」と聞いてきた。確かに船が出るまでに、まだ時間がある。
「じゃあ、どこかおすすめの場所を教えてください」と頼むと、ジャンマルクは「いいところがあるよ」と車を走らせた。
車を降りると、苔むした参道がずっと伸びていた。参道を登りきると、そこは「清水寺」という名の古寺で、高い木々に半ば埋もれるようにして佇んでいた。あたりは静謐で、鳥の鳴き声しか聞こえない。人間の造形物がゆっくりと自然に還ろうとしているみたいだった。こういう忘れられたような場所が島中にあるんだよ、とジャンマルクは言う。
「本当に不思議なくらい、僕はこの島から出たいって思わないんだ。いつか日本中を旅したいけど、結局はずっとこの島から出ないのかもしれない。それくらい、ここが好きだ」
京都の清水寺と同じように、高い舞台を持つ静かな古寺
そんな運命の地に巡り会えた彼らが、どこか羨ましい気さえした。でも、それは彼が言った通り、自分が求めるものを知っていたから見つけられたのだ。自分を自由にしてくれる場所。豊かな自然がぶどうをおいしく育ててくれる場所。文化が息づき、自分を理解してくれる仲間がいる場所。それが、佐渡だった。
話をしているうちに、いよいよ船の時間が近づいていた。
また、今度は家族で遊びにきますね、と私は約束した。その時には、彼のワインを飲めるだろうか。
「ここでのワイン作りは、たぶん僕にとって最後のプロジェクトになるだろう。もしワインができたら、できるだけ佐渡で売りたいんだ。僕らのワインを飲むためには、佐渡まで旅しないといけない。その方がいいと思わない? 農家にはさ、食べる人とのつながりが必要だからね。うまくいくといいなあと思ってるよ(I hope it works)。」
その飄々とした言い方は、まるで成功しなくても大した問題じゃない、というニュアンスにもとれた。私がそう言うと、彼は「そうかも」と答えた。
「ワイン作りがうまくいかなくても、大した問題じゃない。人が食べるものを作る尊さと素晴らしさをこの島の次の世代に伝えられれば、それでいい。自分はワイン作りなら分かるから、ワインを通じて伝えるだけだ。逆に言えば、それくらいのことしかできない。僕は、なにも世界を変えるためにこの島に来たんじゃなくて、“スモールストーン(小さな石)”をちょっと置きにきただけなんだよ」
私は、胸の奥がすっとするような爽快な気分になった。とはいえ、もし、うまく行かなかったらどうするのだろう——。
「そうしたら、僕はすぐにまた別の場所にすぐに旅立てる。持っているものは、手放せばいい。僕には、Tシャツが数枚とジーンズが3本あれば十分だ。もちろん、ひとつかふたつくらい、思い出の品を持っていくかもしれない。でも、僕がいつでも持ち運べるものに、“記憶”がある。それさえあれば、またどこにでも旅立てるんだ」
川内 有緒 ノンフィクション作家
日本大学芸術学部卒、ジョージタウン大学にて修士号を取得。
コンサルティング会社やシンクタンクに勤務し、中南米社会の研究にいそしむ。
その合間に南米やアジアの少数民族や辺境の地への旅の記録を、雑誌や機内誌に発表。
2004年からフランス・パリの国際機関に5年半勤務したあと、フリーランスに。現在は東京を拠点に、おもしろいモノや人を探して旅を続ける。
書籍、コラムやルポを書くかたわら、イベントの企画やアートスペース「山小屋」も運営。
著書に、『パリでメシを食う。』(幻冬舎)、『パリの国連で夢を食う。』(イースト・プレス)、そして第33回新田次郎文学賞を受賞した『バウルを探して~地球の片隅に伝わる秘密の歌~』(幻冬舎)がある。