静岡駅に着いたのは、午前9時3分だった。
外はどんよりとした曇り空で、予報では「午後から雨」。
改札を出ると、その空模様を目の当たりにした友人は、
「なんとか……帰りまで持ってくれるといいね、天気」
と祈るようにつぶやいた。
これから私たちは1時間ほどの道のりを車で移動し、ある場所へ向かうことになっていた。一体なにしに行くのかって?女2人ですることといったらひとつしかないだろう。そう、「お茶しにいく」のだ。
……といっても、お茶をする場所はお店ではなく「民家の縁側」。
飲むのはロイヤルミルクティーではなく、地域名産の「静岡茶」だ。
これから向かう予定の葵区大沢地区は、霧深い山と茶畑に囲まれた戸数23の小さな集落。この場所で、第2・第4週の日曜日のみ、それぞれの民家が縁側を解放し、お茶とお茶請けを提供する「おおさわ縁側カフェ」という街ぐるみの企画をおこなっている。そこでお茶しようというわけだ。
天気のほかにもうひとつ心配なことがあった私は、ポケットからスマホを取り出して一本の電話をかけた。
「もしもし、これから縁側カフェに向かうのですが、そちらにお昼ご飯を食べる場所ってありますか?」
縁側カフェの開催時間は10~15時(11~3月は14時まで)。なにせ山間の小さな集落だ。飲食店があるかどうか疑わしい。そんな私の質問に対する答えはこうだった。
「ああ、大丈夫です。お茶請けでお腹いっぱいになりますから」
あまりに自信たっぷりにそう言うので、わかりましたと言って電話を終わらせてしまった。困惑した表情で友人に「お茶請けでお腹いっぱいになるって言われたよ」と告げると、「お茶請けだけかぁ……」と彼女も考えこんでしまったので、私たちは念のためコンビニでおにぎりを買って行くことにした。
駅前でレンタカーを借り、国道27号線を北へ北へと走らせる。街なかを30分ほどまっすぐ行くと左に曲がる道があり、そこから先はくねくねとした急なカーブが10分ほど続いた。進むごとに道は細くなり、峠道の様相になっていった。
「入り口に『縁側カフェ』の旗が立ててありますから」
そう聞いていたので、木造の古い建物の横にその旗を見つけたとき、意外と早く到着したことに驚いた。しかし、いざ進んでみるとそこからさらに10分ほど、これまでよりもっと細く急な山道が続いたのだった。
本当に「到着」したのだと分かったのは、カーブを抜けた先に、こちらを向いてポツンと立っている高齢の男性の姿を見つけたときだった。車が近づくと、男性もゆっくりと歩いてくる。
運転席の窓を開けると、「縁側カフェ?」と聞かれたので、うんうんとうなずく。すると男性は、手に持っていたA3の用紙を渡してくれた。
「緑の丸がついてるのが今日やってるとこ。車はそのへんに停めていいから」
男性から手渡されたのは、集落の各家庭の場所が記された地図だった。
「今日は老人ホームのお祭りがあるから、やってるところ少ないんだけどね。でも俺んちはやってるよ。この『咲』って書いてあるとこ。行ってみて」
入り口で案内を勤めていた『咲』宅の男性
お礼を告げ、言われた通りそのへんの路肩に車を停めさせてもらった。
10時に静岡駅前を出発して、到着したのが10時50分だから、だいたい1時間の道のりだ。東京からの新幹線の移動時間1時間も合わせると、たったの2時間で私たちは山と茶畑に囲まれた深緑色の世界に到着したのだった。
路肩にはすでに、目に入る範囲だけでも5~6台の車が停まっていた。
車のエンジンの音が止まると、遠くでぼんやりと反響する誰かの笑い声と鳥のさえずりが聞こえるだけで、あたりには心地いい静寂がただよっていた。
集落の入り口にはカフェマップの立て看板も
昨年6月に始まった縁側カフェは、「大沢のお茶をもっと有名にしたい」というささやかな願いからはじまったものだった。
「あんまり真面目な話はできないんで、気楽にしててください」
と言って縁側カフェ到着後に最初のお茶をついでくれたのは、朝の電話の主でもあり、この企画の発起人でもある内野昌樹さんだ。築200年以上という内野さんの家は、木の香りと柱時計の音がする、時代を巻き戻したような空間だった。
お茶は、茶葉の栽培から製造まですべて内野さんのお手製。ひとくち飲んで「あ」と声が漏れる。優しい香りの、甘くて品のいいほろ苦さのあるお茶だった。
「最初はお茶の良さだけわかってもらえばいいと思ったんで、こんなに当たるとは思ってなかったんですよ」
縁側カフェの発起人であり、代表を務める内野昌樹さん
ブレイクのきっかけを作ったのは一本の映画だった。
大沢の人々の暮らしをとらえた「ちいさな、あかり」というドキュメンタリー映画は、縁側カフェが始まる1ヶ月前に静岡で公開され注目を集めた。そのおかげもあって縁側カフェは好調なスタートを切ることができたという。開始早々、お客が殺到したのだ。その後も横浜や渋谷の映画館でも上映され、大沢に興味を持った関東からの訪問客も増えているという。
そうしているうちに評判が口コミで広がり、雑誌やテレビ、Web媒体などが取材に来るようになり、今では一日最高430人が訪れるイベントに成長した。
「もう大変ですよ、カフェの日は朝からてんやわんやで……」
私と話している間にも、内野さんは電話に出たりお客さんの対応をしたりと「てんやわんや」をまさに目の前で体現していた。でもその顔は、どこかその忙しさを楽しんでいるようにも見えた。
話を聞いている間に、目の前のテーブルには次々にお惣菜の鉢が並べられていった。内容は、柏餅に里芋の煮物、お漬け物など、とてもお茶請けとは思えないものばかり。とうとう5鉢になり、驚いて目を白黒させていると「だから言ったでしょう?お茶請けでお腹いっぱいになりますよ、って」と、内野さんはにやりと笑った。
「これって……一人300円なんですよね?」
おそるおそる聞くと、内野さんは何ともないような顔をして「そうですよ」と答える。家庭ごと、季節ごとにメニューも変化するそうだ。春には山菜で天ぷらをしたり、採れたての椎茸を醤油につけて食べたりするのだとか。う~ん、美味しそう!でも、こんなに豪華にしてしまって採算はきちんと取れるのだろうか?
「野菜はほとんど自分の家で作った物を使ってるし、お茶も自分とこのでしょう?だからそんなにコストはかからないんですよ」
結局内野さんのお宅で1時間以上もゆっくりしてしまったが、他のところにも伺うべく居心地のいいこの場所を後にすることに。
帰り際、うながされるままに入り口でもらったマップをポケットから出すと、下の方にあった「スタンプラリー」という欄に内野さんがシールを貼ってくれた。
「8つ集めたら、大沢のお茶をプレゼントしますので頑張ってください」
お茶をくれる!?たった300円で飲み食いして、それを8回繰り返しただけで!?……いったいどれだけのサービス精神なんだ。 あぜんとする私に内野さんは言った。
「去年『おもてなし』って言葉が流行ったでしょう?あれを大沢でもやってるわけです。おもてなしの心ってやっぱり日本の文化でもあるから、大切にしたいなと思って」
内野さんの家を出発し、次に目指したのは集落の入り口に一番近いお宅。なぜかというと、「スイーツが出る」という情報を聞きつけたからだ。
集落の中でも住宅が密集しているのはおよそ500m以内の範囲。それに、どこの家庭にも2~3組のお客が入るほどにぎわっているから、道を歩けば必ず誰かとすれ違う。民家の縁側をシェアするという不思議な体験を共有しているせいか妙に親近感もあり、すれ違いざまにひと言ふた言会話する。その内容が主に「お茶請け」の話なのだ。
到着したスイーツのお宅には、肥満ぎみの看板猫がいて愛想良く私たちを出迎えてくれた。先に席についていた2組のお客さんとも猫を通じて会話がはずむ。「近くから来ている」というご夫婦は、縁側カフェに来るのはもう4回目という常連さんだった。「今何軒目?」と聞かれ「2軒目です」と答えると「もっとどんどん回ったほうがいいですよ~!私たちなんか今4軒目!」とのことだった。そのとき時刻は12時半。彼らの勢いなら、午後もあわせれば1日だけでスタンプラリー8枚を集めきれるかもしれない。
スイーツのお宅の看板猫
期待通り、ヨーグルトケーキとフローズンヨーグルトというお洒落なお茶請けにありついた私たちは、次の目的地を、入り口でマップを配っていた男性の家に定めた。『咲』と印のついたその家は、今いる場所からは住宅密集地を挟んで反対側にあり、集落をぐるっと回るには最適な位置にあった。
ケーキとフローズンヨーグルトには、ミントティーのサービスも
山間の集落には坂道が多い。
緩やかだったり急だったりする斜面を上り下りしながらゆっくり歩いて、林の中をくぐり抜け、暗がりにたたずむ白髭神社の横を通り過ぎると、目的のお宅が見えてきた。スイーツのお宅からそこまで、およそ5分だった。
『咲』印の内野咲夫さんのお宅
『咲』のお宅では、ゆず味噌こんにゃくやひじきの煮物、かぶのお漬け物などをいただいた。対応してくれた男性に「ここのお家のかたですか?」と聞くと「あ、いえ、今日は手伝いに来てるんです。ここは僕の奥さんの実家で」という。縁側カフェが始まってから、こうして手伝いがてら会いにくる機会も増えたという。——なるほど、この企画は実は親戚や家族の絆を深めるのにも一役買っているというわけか。
このころになるとさすがに満腹になってきて、私たちは腹ごなしのために、この日はオープンしていない、集落の一番奥にあるお宅まで歩いてみることにした。入り口からここまでがなにせ5分だったので、もう5分程度歩くだけだろう、と思ったのが間違いだった。
林をくぐり抜け、茶畑に挟まれた道を歩き、坂を登り、川を越え、また林をくぐり、畑で作業している人たちの横を通り過ぎ、また坂を登り、ようやくその建物が見えてきたときには、歩き始めて10分が経過していた。
辿り着いた先にあったのは、山を背にして坂道の突き当たりに建つ、赤い屋根の一軒家。そこはまさしく、「最果ての縁側」と呼ぶにふさわしい場所だった。
集落の入り口から一番遠い『幸』印のお宅
端まで到達したことに満足しうっすら浮かんだ汗をぬぐうと、心なしか満腹のお腹も落ち着いたようだったので、私たちは集落の中心地へふたたび戻ることにした。
「ゼリーが出る」と聞いていた『大六』印のお宅に伺うと、ちょうど入れ替えのタイミングだったようで私たちのほかにお客さんがいなかった。
物腰の柔らかい奥さんに案内され席につくと、おもむろに旦那さんが七輪でなにかを焼き始めた。見ると、おもちのようである。材料からすべて手作りの、芋もちのいそべ焼きだという。
「少しで大丈夫です、たくさん食べてきたんで」と断りを入れるも、「食べられる分だけ食べればいいわよ」と奥さんはにっこり笑い、焼き上がった芋もちをはじめ、大豆の煮物や紫芋のお菓子、目的にしていたゼリーまで、またしても私たちの前にはたくさんのお茶請けが並べられたのだった。
満腹だったものの結局平らげてしまった『大六』さんちのお茶請け。芋餅や煮物の他、紫芋に砂糖を練り込んで干したお菓子なども
誰もいなかったこともあり、奥さんとの会話にも花が咲いた。彼女の話によると、縁側カフェが始まってから集落の人々が元気になったという。たくさんの人が訪れていろいろな話を聞かせてくれるので見識も広まって楽しいし、逆にこちらの話も興味津々に聞いてくれるので嬉しいんだ、と。
また、集落の人同士も縁側カフェをきっかけに協力するようになったり、友人や親戚にも気軽に遊びにきてもらえるいいきっかけになったとか。
やはり縁側カフェは、お客さん同士やお客さんと集落の人、だけでなく、そこに住んでいる人同士や、家族や友人の縁もつなぐ役割を果たしているようだ。
そのときだった。
道に敷きつめられた砂利を踏む音がしたかと思うと、話に集中していた奥さんが「あの音は……」と言って、入り口のほうを振り向いた。
現れたのは、杖をついて歩く高齢の女性。彼女は私たちを見ると、パッと顔を輝かせた。
「今日はもうお客さん会えないかと思ったけどちょっと早く終わったからね、まだいないかなと思って急いで帰ってきたのよ。まだいたね良かった間に合ったねー!」
そう言って高笑いをしながら縁側に腰掛けたその女性の名は、白鳥タニさん。御年84歳だという。
「うちのばあちゃん。すごく元気なの」
という奥さんの言葉通り、以降、タニさんのマシンガントークはとどまるところを知らなかった。
「あんたたちどっから来たの?東京!なんと!そりゃあまあご苦労さんですこんなとこ来てねーなんもないのに!まあでも私がいるか!私に会えるなんてラッキーだよ!かかかか!」と始終この調子だ。
白鳥家のムードメーカー、タニさんのトークはとどまるところを知らない
そんな様子を目の当たりにして、白鳥さんの奥さんが「縁側カフェを始めて集落の人が元気になった」と話していたのは、たしかに「集落の人」でもあるんだろうけど、きっとそのとき頭に思い描いていたのは、このタニさんの姿なんだろうな、と思い至ったのだった。
目の前で繰り広げられるひとり漫才に笑い転げているうちにあっと言う間に時間は経ち、気づけば縁側カフェ終了時刻の15時をすっかり過ぎていた。
「もう暗くなってきたので、そろそろおいとまします」
と言うと、タニさんが
「そうか!じゃあ入り口まで送ってく!」
と立ち上がる。
そうして私たちは車のある場所まで歩いて向かったが、タニさんの会話の途切れる暇がなく、車の前で長々立ち話をしていた。するとご家族のかたがなにかを察したのか、「ばあちゃん!遅いから心配で見にきたよ」とタニさんを迎えにきてくれたのだった。
こうして私たちは無事タニさんのマシンガントークから解放(?)され、笑顔でいつまでも手を降るタニさんに見送られながら大沢を後にすることとなった。
バックミラーに映ったタニさんの姿が見えなくなると、一瞬間を置いた後、車内は爆笑の渦に包まれた。
「あんな元気なおばあちゃん、見たことない!」
「きっと、縁側カフェのラスボスだよ!」
きっともう少し回ることができただろういくつかのカフェには行きそびれたけど、心の中はなぜか満足感でいっぱいだった。
どのお宅も気さくに話しかけてくれたので、帰り道は、たまに会う同い年のいとこと別れるときの子供みたいに、ほんのりきゅんと寂しかった。
「また来たいね、会いに」と言うと
「戻ってこよう、また」と友人もうなずいた。
心配していた雨は、私たちが静岡駅に到着したあとに突然、勢い良く降り始めたのだった。
ライター 坂口直
1985年、東京都生まれ。
大学卒業後、海外特許取得に係る手続きの代理業に5年間従事。
初めてアジア以外の海外を訪問した際、異文化の面白さを感じ、まだ見ぬ人や文化に出会いたいという思いが芽生えるようになる。
その思いを遂げるべく、2013年春よりフリーのライターとして活動開始。現在はWeb媒体を中心に活動を広げている。