フラガールに熱い想いを抱く彼女たちの憧れの存在が、フラガールのリーダー、モアナ梨江さん。「ダンスも人間性も素敵!」と全員が絶賛していた。
梨江さんは40期生で、ちょうど新入生たちの10期先輩にあたる。
リーダーはどんな想いでフラガールになり、どんな生活をしているのだろうか?
そんな興味を抱いた僕は、梨江さんにも話を聞かせてもらった。
福島県双葉町出身の梨江さんは、小学3年生の時、地域の子供会のイベントでスパリゾートハワイアンズの前身である常磐ハワイアンセンターにやってきた。そこで初めてフラダンスのショーを見て、「自分もここのステージで踊りたい」と思ったという。
高校生になると、その想いは変わらないどころかむしろ強まり、何度もショーを観に来るようになった。そして、高校卒業後の2004年に常磐音楽舞踊学院に入学した。
フラガールになって10年目、リーダーになって2年目の梨江さんの生活は、朝8時に始まる。ご飯を食べ、ストレッチをしてから11時半過ぎに出社。出演者のフォーメーションの確認など昼のショーの準備をして、13時半からショーを迎える。ショーの後は昼食をとってからレッスンに入る。レッスンが終わると19時から夜のショーのフォーメーションを全員で確認し、20時半からショー。帰宅は22時過ぎで、それから次の日のフォーメーションを作ったりしていると、寝るのは3時、4時頃になる。
リーダーとして普通のダンサーよりも仕事量が多いが、「今はそれを含めて日常の一部になっているので、慣れました」と語る。
驚いたのは、休日の過ごし方だ。
「休みの日は、みんなにばれないようにこっそりとショーを観に来ることもあります。観客席でお客さんに紛れて観ていると、これはすごいとか、直にお客様のいろいろな声が聞こえてくるじゃないですか。ショーを見るのも勉強ですし、お客様の感想を聞くのが楽しいんですよ(笑)。」
梨江さんは、佇まいも話し方もとてもおっとりしている。おまけに、常に穏やかな笑顔を浮かべているから、「近所の優しいお姉さん」という雰囲気で、企業やスポーツにおけるリーダー像とは異なる印象がある。
本人も自分のことを「陰でひっそりして、全体を引いた目で見る」タイプだと話しているから、前リーダーの引退後にリーダー就任の話が来たときは戸惑ったそうだ。
しかし、梨江さんの話を聞いて、リーダーに選ばれた理由がわかった。休日もショーを観に来るほどフラガールのことを考えていて、人一倍努力家で、しかもそれを誇示しない梨江さんだからこそ、ダンサーたちは梨江さんの背中を見て多くのことを学ぶのだろう。
この10年で、梨江さんにとって印象的だった出来事はふたつある。
ひとつは2006年9月に公開された映画『フラガール』。
「デビューした当時、例えばお昼のショーでは数えられるぐらいのお客さんしかいないこともあったんですけど、映画が公開されてからは客席が埋まって立ち見も出るぐらいになって、本当にすごいなって思いました」
映画はスパリゾートハワイアンズを舞台にしており、2007年の来場者数は161万1000人に達した。これは今もスパリゾートハワイアンズの最高記録である。
もうひとつは、東日本大震災だ。
2011年3月11日、お昼のショーを終えた後の休憩時間中に地震が起きた。
フラガールのメンバーに大きな被害者は出なかったが、その日以来、全員が自宅待機となり、原発事故もあって混乱の日々が続いた。
「水道も出なかったし、生活するのでいっぱいいっぱいだったので、これから仕事はどうなるんだろうという気持ちもあったけど、当時はとりあえず生きるのに必死でした」
梨江さんの実家は避難生活を余儀なくされ、スパリゾートハワイアンズ自体も地震で損傷し、震災直後は施設自体の再開の目途すら立っていなかった。
そんな状況の中、当時の社長、斎藤一彦氏(現会長)が大きな決断をする。
「フラガールの全国キャラバンをするぞ!」
1965年、常磐ハワイアンセンターがオープンする1年前、一期生のフラガールたちは宣伝のために全国キャラバンを行った。これが話題を呼び、初年度120万人の来客につながった。斎藤社長は、東日本大震災、原発事故という前代未聞の危機を前に、創業時と同じくフラガールの全国キャラバンをすることで復活の狼煙をあげようとしたのだ。
しかし、フラガールたちは3月11日から散り散りになっており、当時、副リーダーだった梨江さんは、どれだけメンバーが集まるのかは未知数だったと振り返る。
「私は何度か会社に来て話をしていたんですが、福島も微妙な状況でしたし、全員は集まらないよね、と言っていたんです。だから、それぞれの意志に任せて、残った人だけで頑張ろうって話をしていました」
集合日は4月22日。福島は4月11日にも大きな直下型地震に襲われており、誰もが地震と原発事故の恐怖に怯えている状況だった。
そうして迎えた当日、目にした光景に梨江さんは言葉を失った。
「全員来たら奇跡だねと話していたんですが、本当に一人も欠けることなく、全員揃ったんです。迷った子も、いろいろ大変だった子もいると思うんですけど、それでも自分たちの使命を感じて集まってくれた。全員いるという喜びと1カ月ぶりに仲間に会えた喜びとで鳥肌が立ちました」。
こうして震災からわずか41日で再始動したフラガールは、5月3日から「全国きずなキャラバン」をスタート。施設がリニューアルオープンする10月1日までの間に26都道府県124ヵ所で245回の公演を行った。
この「全国きずなキャラバン」の効果は、計り知れない。キャラバンを終えて3年が経った今も、新入生たちがフラガールを志すきっかけになっているのだから、震災直後の不安定極まりない時期に全員が集まって確認したフラガールを続けることへの強い想いは、しっかり受け継がれているのだ。
それを実感したのは、新入生と一緒に昼休みを過ごしている時だった。
全員から一通りの話を聞き終えると、6人はレッスン場に向かった。まだ午後の授業が始まるまでには20分ほどあったのだが、彼女たちはCDをかけて自主練習を始めた。
その様子を見て、僕は頬を緩めずにはいられなかった。
めちゃくちゃ楽しそうだったのだ。
13時から17時までダンスの練習があるのだから、時間ぎりぎりまで休んでおこうと思ってもおかしくはない。休まなくても、おしゃべりをしたり、携帯電話をいじったり、時間を使う方法はいくらでもある。
それをせず、昼休み中に自主練習をしているのだから真面目な子たちなのだが、それが必要に迫られて、という感じではなく、6人は「ただ楽しいから踊っている」という雰囲気なのだ。誰かが「あれはどうやるんだっけ?」と聞けばみんなで教え、誰かが「あの曲もやろう!」と言えば「良いね!」と賛成し、とにかく楽しそうに踊り続けている。
その姿が、フラガールになって10年目の今でもショーになれば「ワクワクする」とほほ笑むリーダーの梨江さんの姿に重なった。
午後の授業はポリネシアンダンスの予定だったが、その日はフラダンスの練習に変更になった。彼女たちは、7月9日に東京国際フォーラムで開催されるフラガールの東京公演「常磐音楽舞踊学院50周年記念 イムア・未来へ」でのデビューを控えていて、午後の時間はその練習にあてられた。
さすがに先生を前にすると6人の表情もキュッと引き締まる。とても明るい先生で、レッスン中も笑顔が絶えなかったが、デビューに向けてみんな真剣に取り組んでいたので、僕は片隅で見学させてもらうことにした。
ダンスを眺めていると、それぞれ個性があることがわかる。動きが滑らかな子もいれば、指の先まで姿勢が美しい子もいるし、踊っている最中の笑顔が最高の子もいる。
朝からの数時間で早くも情が湧き始めていた僕は、彼女たちを見守る「近所のおじさん」のような気分で、誰にも頼まれていないのに、めったやたらに写真を撮ってしまった。
すると、先生から唐突に「もう踊りを憶えちゃったんじゃないですか?」と話しかけられた。確かに2時間近く真剣に練習を見ていたから、なんとなく憶えている。
「た、確かにそうですね!」
急速に鼻息が荒くなった僕は、授業の残り10分、新入生たちから少し離れた位置で、一緒にダンシングさせてもらった。
踊ってみて気づいたのは、フラダンスは柔らかい動作に見えるけど、かなりの体幹の筋肉が必要とされること。身体の芯をぶらさずに優雅に踊るのは、予想以上に難しい。新たな発見もあった。動きが硬いフラダンスは、まるで新手の盆踊りのように見える。明らかに柔軟性を欠いてギクシャクしている僕のフラダンスは、不可思議な盆ダンスと化していた。先生も生徒たちも練習に必死で、僕の滑稽な姿を見ていなかったのが幸いだった。
帰り際、「今日はありがとうございました!」とお礼を言ったら、みんなが「ありがとうございました!」と手を振ってくれた。
最初から最後まで良い子たちだ。
この子たちが7月9日、東京国際フォーラムという大舞台でデビューするのかと思うと誇らしい気持ちになった。
ダンスの技術はまだ未熟かもしれない。でも、この子たちのダンスに懸ける想いは本物だ。出会ってからたった数時間だったけど、それだけは確信した。
僕は「東京国際フォーラムで会いましょう!」と声をかけて背を向けた。
リアクションがないので振り返ると、もうみんなレッスン場に戻っていて誰も聞いていなかった。ずっこけそうになった。
デビューの日、一緒に練習させてもらったフラダンスがどんな風に仕上がっているのか、今からワクワクしている。
ライター 川内イオ
1979年生まれ、千葉県出身。広告代理店勤務を経て2003年よりフリーライターに。
スポーツノンフィクション誌の企画で2006年1月より5ヵ月間、豪州、中南米、欧州の9カ国を周り、世界のサッカーシーンをレポート。
ドイツW杯取材を経て、2006年9月にバルセロナに移住した。移住後はスペインサッカーを中心に取材し各種媒体に寄稿。
2010年夏に完全帰国し、デジタルサッカー誌編集部、ビジネス誌編集部を経て、現在フリーランスのエディター&ライターとして、スポーツ、旅、ビジネスの分野で幅広く活動中。
著書に『サッカー馬鹿、海を渡る~リーガエスパニョーラで働く日本人』(水曜社)。