タイムスリップ。
一言で表すなら、そんな気分だった。
僕は日本最後の鷹匠、松原英俊さんの取材を終えて、山形県の田麦俣集落というところから鶴岡の市街地に向けて車を走らせていた。
霊峰・月山の麓、深い山々に囲まれた田麦俣は大粒の牡丹雪が舞い散るように振っていて、フロンドガラスがすぐに真っ白になってしまうほどだった。
それが田麦俣を出てしばらくすると、突然、スイッチを切ったように雪が止み、ただの曇り空になった。
雪の境界線を越えた。
ただそれだけのことかもしれない。
でも、田麦俣で過ごした3時間が少し現実離れしていたから、雪の世界から抜け出した瞬間、どこか違う時空から現代に戻ってきたような気がして、思わず後ろを振り返った。
東京駅から夜行バスに乗り、曇天の鶴岡駅南口に着いたのが2月13日の朝8時。
駅前のミスタードーナツで少し休憩した後、レンタカーで松原さんの住む田麦俣に向かった。
鶴岡駅前から高速道を走って40分ほどの位置にある田麦俣は、山間の雪深い集落だった。
室町時代から江戸時代にかけて、山岳信仰の対象である出羽三山のひとつ、湯殿山へ参拝する人たちの宿場として栄えていたそうだ。
でも、今はすでに当時の面影はなく、ひっそりと静まり返っていた。
平日の昼間ということもあり、誰も外を歩いていない。
両脇に雪の壁ができた細い道を車で慎重に進んでいくと、少し小高くなった場所にすっぽりと雪に埋もれた古い民家が見えた。
道路から見た状態では、どこに玄関があるのかもわからない。家に向かう道も見当たらない。ただ、家に向かって一筋の足跡が続いている。
あった!
松原さんから説明を聞いていた僕は、道端に車を止め、足跡に沿って登り始めた。
すると間もなく、しっかりと雪かきされた玄関が目に入った。
僕は思わず立ち尽くした。
1階部分は玄関以外、すべて雪に覆われている。
玄関に呼び鈴はなく、引き戸を開けて「こんにちは!」と声をかけると、松原さんが「どうも」と笑顔で迎えてくれた。
松原家の居間は畳の和室で、大きなストーブとこたつが置かれていた。
どうぞ、と言われてこたつに入ると、松原さんはストーブの上に置かれたやかんのお湯で、お茶を入れてくれた。
1階部分が雪に囲まれているような状態だからか、家の中はかなり冷え込んでいる。
こたつで取材をするのは初めてだ、と思っていると、突然、どこからか「ギェーギェー」という泣き声が聞こえてきた。
「……これは、鷹ですか?」と尋ねると、松原さんは「ええ、そうです」と柔和な笑みを浮かべた。
鷹匠とは、訓練した鷹や鷲など猛禽類で狩りを行う人のことを指さす。
鷹を使った狩り=鷹狩は中央アジアやモンゴル高原の周辺が発祥の地と言われており、日本でも、仁徳天皇の時代(355年)には鷹狩が行われていたとされ、その歴史は長い。
鷹狩には、犬を使って藪や林から野鳥を追い出し、飛び立ったところを鷹で捕獲するスタイルと、雪山で野うさぎやタヌキ、キツネといった動物を狙うスタイルの2種類ある。
鳥を捕獲する場合、猛禽類としては小型・中型のオオタカやハヤブサを使う場合が多く、小動物や哺乳類を狩る場合には鷹のなかでも最大の熊鷹やイヌワシを使う。
熊鷹やイヌワシは、羽を広げた状態で1.5メートルにも達するというから、かなりの大きさだ。
現代の日本において、雪山で熊鷹、イヌワシを使って狩りをする技術を持つのは、松原さんしかいない。
だから、松原さんは「日本最後の鷹匠」と言われている。
1950年5月生まれの松原さんは、現在63歳。
青森出身で、慶応大学文学部を卒業している。
今も昔も、慶応大学卒業といえばエリートだ。
しかも、両親は銀行員と小学校の教師だったというから、良家のご子息である。
そんな恵まれた環境にあった男がなぜ鷹匠を目指し、今もなお、日本昔話に出てくるような古い民家で暮らしながら、雪深い山中で鷹狩を続けているのだろう。
そんな疑問が、松原さんに会いに行こうと思った理由だった。
松原さんは、友達と鬼ごっこやチャンバラ遊びを楽しむ、いわゆる普通の子どもだったという。
しかし、あるきっかけで人生の歯車が鷹匠に向けてガチャっと動いた。
「小学校4年生のときに親からセキセイインコを買ってもらってから一気に鳥に夢中になって、学校が終わったら鳥に付きっきりで眺めていたから、全然友達と遊ばなくなってしまったんですよね。
小学校5年生のときには当時最年少で野鳥の会の青森支部に入りました。
5年生のとき、親に郊外の山に連れて行ってもらったとき、それまで図鑑で見ていた鳥が自然のなかでいきいきと飛び回る姿を見て、ますます夢中になりました」
鳥に魅了された少年は中学生になると山岳部に入り、次第に鳥だけではなく、ほかの動物や自然も好きになっていった。
とはいえ、このときは少年らしい気楽さで自然を楽しんでいただけで、何の気負いもなかった。
だから、山岳部がなかった高校では英語クラブに入部し、受験勉強にも打ち込んで「ちょっと鳥から離れました」。
松原さんの人生を大きく変えたのは、大学時代。
慶応大学に入った彼は、日増しに山と自然の虜になっていった。
「大学でも野鳥の会に入りました。ところが、当時の野鳥の会は軟弱で、高尾山に行って鳥を眺めたりするぐらいでたいした活動をしてなかったんですよね。
だから1年でやめて、それから単独で山に行っては鳥や動物を観察するようになりました。
登山を本格的に始めたのは大学に入ってからなので、低い山から登っていこうと思って、奥多摩、丹沢、奥秩父、八ヶ岳、中央アルプスとだんだん標高を上げていきました。
そうするうちに将来も山に住んで、山登りする生活に憧れて」
大学生はとにかく時間がある。
松原さんの生活は、登山中心になっていった。
同時に、猛烈に読書をするようになった。
特に山に関する本、冒険物、探検物がお気に入りだった。どれも胸が躍った。
そうするうちに、思い立つ。
「俺も冒険に出よう」
どうせ冒険をするなら、誰もやっていないことに挑戦したい。
いろいろと調べた結果、アラビア半島にある全長800キロ、世界最大級のルブアルハリ砂漠を目的地に定めた。
ラクダに乗って単独でこの砂漠を横断する。
前人未到の冒険への熱に浮かされた松原さんは、大学3年生のとき、休学届を出した。
アルバイトで資金を稼ぎながら、訓練として青森―東京間の800キロを20日間で踏破した。
本気で挑むつもりだった。
ところが、最初の一歩で躓いた。
「いざ、サウジアラビアに行こうと思って大使館に行ったら、観光ビザとしては3日間しか許可できないというんです。
私は個人で行こうとしていたからそれ以上はどうしようもなくて、砂漠横断は断念しました」
事前にビザの情報を調べておかなかったのが残念なところだが、そこは若気の至り。
無理なものは無理だから仕方がないと気持ちを切り替えた松原さんは、休学した1年を無駄にしないために、岩手県・北上高地の北端にある山形村に向かった
「僻地を歩き回るのが好きで、以前から夏休みの度に田舎に行っては農作業を手伝ったりしていたんです。
そのなかで一番気に入っていた北上高地の山形村で、1年間住んでみようと思いました。
そこの養蚕小屋の二階を借りて、住み込んだんですよね。
村の人の稲刈りとか田植え、畑仕事、養蚕とか養豚とかいろんなことを手伝って暮らしました」
800キロの砂漠横断から、自然豊かな農村での生活という方向転換は、結果として彼の人生のターニングポイントになった。
「自分も、どんなに貧しくてもいいから自然のなかで生き物たちと暮らす生活をしたい」
そんな思いが、心の底から湧き上がってきたのである。
頭の中で夢想する自然と動物に囲まれた生活は無視できないほど魅力的で、松原さんはどうすればその生活を実現できるかを真剣に考えるようになった。
そしてあるとき、唐突に閃いた。
「山が好きだから、山小屋に住み着いて山を歩き回ろうか、ハンターになろうかとか、いろいろ山で生きる手段を考えているうちに、中学のときに観てすごく感動した『老人と鷹』という鷹匠のドキュメンタリーのことを思い出したんです。
これだ! と思いました。自分は生き物がこんなに好きなんだから、鉄砲という機械で獲物を捕らえるんじゃなくて、生き物で生き物を捕まえるのが自分に一番合ってるんじゃないかなと思ったんですよね」
「老人と鷹」は、山形県真室川町の老鷹匠、沓沢朝治さんに密着したドキュメンタリーで、カンヌでもグランプリを獲った名作だ。
中学生のときの松原さんは山と鳥に熱狂していたから、「老人と鷹」の印象が強烈だったのだろう。
番組の記憶が蘇り、鷹匠という仕事があるじゃないかと思い至った瞬間を、松原さんはこう振り返る。
「天から与えられた啓示のようでした」
静かな部屋に、また「ギェーギェー」という鷹の鳴き声が響いた。
それはまるで、鷹が松原さんの言葉に同意しているようだった。
ひとり伝統を守り続ける日本最後の鷹匠 孤高の道を、鷹とともに[後編]に続く
ライター 川内イオ
1979年生まれ、千葉県出身。広告代理店勤務を経て2003年よりフリーライターに。
スポーツノンフィクション誌の企画で2006年1月より5ヵ月間、豪州、中南米、欧州の9カ国を周り、世界のサッカーシーンをレポート。
ドイツW杯取材を経て、2006年9月にバルセロナに移住した。移住後はスペインサッカーを中心に取材し各種媒体に寄稿。
2010年夏に完全帰国し、デジタルサッカー誌編集部、ビジネス誌編集部を経て、現在フリーランスのエディター&ライターとして、スポーツ、旅、ビジネスの分野で幅広く活動中。
著書に『サッカー馬鹿、海を渡る~リーガエスパニョーラで働く日本人』(水曜社)。