材木を組んだ焚き火が、勢いよく燃えている。
まだ17時を過ぎたぐらいの時刻だったけど、秋田・角館の日はすっかり落ちていて、ブーツを履いた足の指先が痛くなるほど冷え込んでいた。暖を取るために焚き火を囲む人たちの顔は皆、オレンジ色に染まっている。
そこに紺色のはんてんをまとい、頭に手ぬぐいを巻いた地元の男性が歩み寄り、稲わらを編みこんだ炭俵を焚き火に近づけた。炭俵には1メートルほどのわらの紐がついている。
火がチロリチロリと炭俵を這い回り、5秒ほど経つと燃え移った。次第に炭俵の火が大きくなり、燃え盛る一歩手前の時点で男性は「どうぞ」とわらの紐を僕に手渡した。
「はい」と頷き紐を受け取る。
紐の先では、あっという間に火が全体に広がり、大きな火の玉のようになっていた。
僕は紐を両手で握り、頭上に構え、燃え盛る炭俵を振り回し始めた。経験したことのないほど近くで、パチパチパチパチと木が爆ぜる音が耳に響く。
僕は無意識のうちに「おおおおおー!」と声をあげていた。重いとか熱いからじゃない。なんというか、人間の根源的で原始的な雄叫びだった――。
角館は、江戸時代の趣を今も残す武家屋敷が軒を連ねる秋田屈指の名所だ。立ち並ぶシダレザクラが咲き誇る春には観光客が押し寄せるというけれど、シンと静まり返った雪景色もまた風流で、歴史情緒と品の良さを感じさせる町である。
その角館が、2月13、14日の2日間だけ、いつもと違った雰囲気に包まれる。奇祭として知られる「火振りかまくら」という伝統行事が催されるのだ。
2月13日の夕刻、僕は秋田県の角館駅から徒歩20分、武家屋敷通りを抜け、国道46号線と市内を流れる桧木内川の堤防の間に位置する「火振りかまくら」の主会場・桜並木駐車場にいた。「火振りかまくら」に飛び入り参加しに角館までやってきたのだ。
なぜか?
話は少し遡る。
僕は子どもの頃からとにかく「火」が大好きだった。自分でもなぜかわからない。僕の一番の好物がハンバーグであることに理由がないように、物心ついたときから無性に火が好きで、今も焚き火や花火に見入ってしまう。
だから2年前のある日、秋田出身の友人が教えてくれた情報に、僕は心を鷲づかみにされた。
「秋田に、火の玉を振り回すお祭りがあるんですよ。それがかなり大きな火なんです」
「えぇっ!! マジで!?」
火の玉? 振り回す? しかもでかい?
まるで想像がつかなかったけど、なんだかとんでもない祭りだということだけはわかる。想像するだけでドキドキした。
すぐに調べたところ、その祭りが「火振りかまくら」だと判明した。角館のホームページに載っていた、人々が巨大な火の玉を回転させている写真が脳裏に焼きついた。
あれから2年、僕は火の玉に魅せられてはるばる角館までやってきたのだ。
お祭り会場に足を踏み入れたとき、僕は思わず「やばい……」と呟いていた。
夜店が立ち、大勢の参加者と見物客でにぎわう会場の中央で、いくつもの巨大な火の塊がぶんぶんと回転している。それは、これまでに見たことのない幻想的な光景だった。
僕が住む東京では火は「危ないもの」でしかない。公園では焚き火はおろか、花火すら禁止されている。タバコを吸わない僕が日常的に見る火はガスコンロぐらいで、当然、屋外で火を目にすることなんてほとんどない。
それがどうだ。
角館では、祭りの参加者が火と戯れている。遊んでいるわけではなく伝統的な行事だとわかっているけど、それにしてもみんな、火の粉に怯える様子もなく、おばあちゃんも子どもも若いギャルもおじさんも、みんな、いたずらっ子のような表情でニコニコしている。
ああ、俺もやりたい!
そんな衝動が込み上げてきて、近くにいた女性に「観光客も体験できるんですか?」と尋ねたら、「できますよ!」とわざわざ受付まで案内してくれた。
さすが、火を愛する角館の人は心もホットだ。
火ぶり体験は500円。
火の粉を避けるために頭に巻く手ぬぐいとはんてん、軍手を貸してくれた。
諸々を装着しながら鼻息も荒く受付のおばちゃんに、「それにしてもすごい祭りですね」と言ったら、「そうですかね? 私らにとってはずっと昔からやってる祭りだからね」と柔らかい秋田訛りが返ってきた。
ずっと昔から。
そう、この祭りは角館で400年以上も前から続いているのだ。
秋田県仙北市の文化財課によると、「火振りかまくら」は江戸時代から小正月にあたる1月14日に行われていた。
もともとは豊作を火に祈願する儀式で、火は稲の害虫を焼き払うという意味を持つ。秋田地方では、この行事を「かまくら」と呼ぶ。
当時の農民は、米俵や製炭用に使う俵に火をつけていた。俵に火をつけるのは、雪解けが早くなり、燃えかすが肥料にもなるという側面もあったようだ。いつから振り回すようになったのか定かではないけど、なんと、文化十一年甲戌(1815年)に作られた『奥州秋田風俗問状答』という資料の中の図表「一月十四日道祖神祭」には、武家屋敷の門前で大火を燃やし、男たちが俵に火をつけて振っている姿が描かれているそうだ。
現在は、五穀豊穣、無病息災、家内安全を願うものとして、角館のほか横手、六郷、秋田で行事として現存している。
昭和30年代から40年代にかけて、炭俵の不足で一時中断されていたが、「火振りかまくら」は江戸時代から現代までほぼ途切れることなく受け継がれてきたのだ。
さあ、僕もその400年の伝統を体感する時がきた。
寒さと緊張と昂ぶりで、焚き火の前で足踏みしながら順番を待っていると、受付のおばちゃんが「写真撮ろうか?」と声をかけてくれた。やっぱり温かい。
おばちゃんにカメラを託し、火振り体験を仕切っていたおばちゃんのだんなさんから炭俵を受け取った僕は、「おおおおおー!」と叫びながら、思う存分に燃え盛る俵を回転させた。振り回すと、その影響で火の勢いがどんどん強くなり、俵は完全に炎に包まれる。
時間にしてどれぐらいだっただろう。恐らく1分もないと思うけど、寒さなんてまったく感じなかった。周囲の音も聞こえない。怖さもない。夢中というよりも無心という言葉がぴったりくるような、静けさに包まれた精神状態だった。そう、例えるなら自分がそこだけ穏やかに晴れている台風の目になったような気分だ。
終わりは唐突に訪れる。
火が紐に燃え移ると間もなく焼き切れて、炭俵がボトンと落ちて終わる。手元が急に軽くなるその瞬間は、異界から現実に引き戻されたような不思議な気分だった。
一瞬、放心していたら、おばちゃんが「お兄さん!」と駆け寄ってきた。
ん?
「何でかわからないんだけど、写真が撮れなかったのよ!」
なにぃ! まじっすか!?
慌ててカメラを受け取ると、すぐに理由がわかった。
「……電源が、オフになってますね」
おばちゃん、「えっ!」と驚いた後すぐに「あははっ!」と笑い始めた。
思わず、僕も笑った。
すると、その様子を見ていただんなさんが無言でもうひとつ、炭俵を差し出してくれた。渋い。渋すぎる!
僕は好意に甘えて、2度目の火振りに臨んだ。気づかぬうちに、また雄叫びをあげていた。
このときはおばちゃんもしっかり撮影してくれたんだけど、あとで写真を確認したらうっすら笑っている自分が、かなり不気味だった。
2度目の火振りが終わったとき、手元に残った紐の先がまだ燃えていて、だんなさんがさっと寄ってきて足で踏んで消してくれた。手元の紐にお守りがついていることに、そのとき気づいた。おばちゃんが「残った紐と一緒に家に飾ってくださいね。無病息災のお守りだから」と教えてくれた。
念願の「火振りかまくら」を体験した僕は、何かを成し遂げたような、晴れ晴れとした気分になった。数分前の自分より男らしくなったような気がした。経験したことはないけど、きっとバンジージャンプをした後と同じような気持ちではなかろうか。
そうして思いっきり「どや顔」をしながら会場を見渡すと、僕の目の前で7、8歳ぐらいの少年が、余裕の表情で炎に包まれた俵を振り回していた。
ムムッ! 少年、やるじゃないか。
さらに視線を横に向けると、ミニスカートをはいたイマドキギャルが、堂々とした佇まいで燃え盛る俵を回転させている。
慌ててどや顔を引っ込めたのは言うまでもない。
改めて思い返した。「火ぶりかまくら」は、400年前から続いているのだ。地元の方々にとっては毎年恒例なのである。
目的を果たした僕は、その後、夜店を巡って祭りを楽しんだ。秋田のお米で作る駄菓子「ばくだん」、角館でイノシシを飼育しているというご夫婦自慢の「イノシシなべ」、地鶏を入れたラーメンなどが売られていて、地域色が豊かだ。
僕は身体が温まりそうな「イノシシなべ」(一杯500円)を食べながら、祭りのクライマックス「冬花火」を待った。ちなみに、なべにはきのこ、たけのこ、ぜんまい、ごぼう、ふきなどの山菜が味噌で煮込まれていて、豚肉を濃厚にしたような野性味と歯ごたえあるイノシシの肉との相性が抜群だった。
20時、カウントダウンが始まり、会場のみんなで「ゼロ!」といった瞬間、夜空にドーンと大きな花火が打ち上げられた。冬の夜空は空気が澄んでいるせいか、とても色鮮やかだ。僕は赤、緑、黄、青と夜空が明るく色づくのを眺めながら、今まで体験したことのない高揚感を味あわせてくれた「火振りかまくら」について思いを馳せていた。
なぜ、400年前の人たちは、炭俵に火を付けてみんなで振り回すなんて奇妙なことを始めたのだろうか。その理由は、思わず目を奪われる火の玉の乱舞と、人々のいたずらっ子のような笑顔、そして僕が感じた原始的な衝動にある気がした。
ライター 川内イオ
1979年生まれ、千葉県出身。広告代理店勤務を経て2003年よりフリーライターに。
スポーツノンフィクション誌の企画で2006年1月より5ヵ月間、豪州、中南米、欧州の9カ国を周り、世界のサッカーシーンをレポート。
ドイツW杯取材を経て、2006年9月にバルセロナに移住した。移住後はスペインサッカーを中心に取材し各種媒体に寄稿。
2010年夏に完全帰国し、デジタルサッカー誌編集部、ビジネス誌編集部を経て、現在フリーランスのエディター&ライターとして、スポーツ、旅、ビジネスの分野で幅広く活動中。
著書に『サッカー馬鹿、海を渡る~リーガエスパニョーラで働く日本人』(水曜社)。