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未知の細道

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Text and Photo by 川内 イオ 第49回 2015.8.20 update.
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信州薬草談義 日本唯一のチベット医と山の古道を歩く

超難関のチベット医科大学を卒業し、外国人として初めてチベット医となった日本人・小川康さん。チベット医は、薬草の処方など現地に伝わる伝統的な医学に精通しているという。長野に住む小川さんを訪ねて一緒に山中の古道を歩き、身近な薬草について解説をしてもらいながら、なぜチベット医を目指したのか、その稀有な人生の話を聞いた。

長野県上田市

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上田駅から別所線に乗り換え。
車窓から見える風景は山と田園でのどかそのもの

「古道を歩きましょうか」

小川康さんはそう言うと、目の前の小高い山に続く細い道を指さした。

長野県上田市の野倉集落。信州最古の温泉と言われる別所温泉からさらにひとつ峠を越えると、全国的に名を知られた茶房「PANI」がある。サンスクリット語で「水」を意味するこのカフェでランチに絶品のオープンサンドを食べた後、小川さんの案内で山に向かって歩き始めた。

長野の山間で営業するPANIだが、県外からも客が訪ねてくる人気店

小川さんは、東北大学薬学部を卒業した薬剤師であるとともに、外国人として初めてチベットの医科大学を卒業し、薬草の処方などを主とするチベットの伝統的な医学を習得した、日本で唯一、というより、世界でひとりしかいないチベット人以外のチベット医だ。

世界で唯一の外国人チベット医・小川さん

チベット医学は中国、インド、イスラムの伝統医学と並んで東洋四大医学と称され、いまも現地に根付いている。アムチと呼ばれるチベット医の特徴は、脈診、尿診によって患者を診察することと、自ら薬草を収穫、鑑別し、調合して自分の手で薬を作ることができること。小川さんは300種類もの薬草を鑑別し、患者の症状に合った薬を生み出す、恐らくは日本一の薬草マスターなのだ。

薬草を知ると、山の景色が変わる

医者というと白衣を着た真面目そうな人物が思い浮かぶけど、Tシャツ姿の小川さんはニコニコとリラックスした雰囲気で、歩きながら、時おり立ち止まって道端になにげなく生えている草木の解説をしてくれる。

「ここに、ヨモギが生えてます。ヨモギはタンニンという成分を含んでいて、最低限の止血効果、抗菌効果があります。使う時は、口の中で噛んでから傷口に塗る。なぜかというと、細胞の中に成分があるから、噛んで細胞壁を壊すと成分が滲みだしてくるんです。昔は日本でも血止め草と言われていました」

道端でよく見かけるヨモギにも薬草としての効能がある

「これは桑の葉。一昔前まで、この辺り(野倉地区)には緑茶もコーヒーもありませんでした。それじゃあ、昔の人は何を飲んでいたかというと、白湯を飲んでいたと思うんだけど、白湯に桑の葉を入れると緑茶のような味がするんですよ」

長野は養蚕が盛んだったため、桑の木がたくさん生えている

薬草や漢方に精通した小川さんの話を聞いていると、ひなびた集落の、特に手入れもされていない草木が生い茂った道が、まるで違う景色に見えてくる。

集落が途切れ、山中の古道に着いた。この道は松本方面まで続いていて、江戸時代、もしくはそれより前から峠を越える旅人や商人に踏み固められてきたそうだ。 「ここ数十年、ほとんど誰も歩いてないような道なんだけど、なぜか道の上には草が生えてこないんだ。不思議だよね」

そう話しながら、足元にトリカブトを発見すると、そこから話が膨らんでゆく。

「トリカブトは、アイヌの人たちが矢の先に塗って使った貴重な毒薬です。毒と薬は表裏一体で、トリカブトはいまも普通に漢方薬に入っているんですよ。もし僕たちが獣を取らなきゃいけない状況になったら、トリカブトは大切です。でも、矢を射るために弓が必要になる。弓を作るためには、何の木を使えばよいと思う? 実はマユミ(真弓)という木があって、それが実際によくしなる弓になる。昔の人は、わかりやすい名前を付けていたんだよね」

小川さんの話は、現代のほとんどの日本人が知らない、あるいは忘れてしまった過去といまをつなぐ。だから、遠い昔を生きた人々との距離が縮まったような気持ちになる。自然を観察するネイチャーガイドとは違う、まるで山を歩きながら過去を巡る歴史トレッキングをしているような気分だ。

小川さんの自宅で日干しされていた甘茶。漢方薬として使用されている

いまはほとんど使われていない山中の古道
東北大学の薬学部生だった大学時代は、就職も考えないほど弓道に熱中した
人生を変えた不良高校での1年間

日本唯一のチベット医である小川さんだが、「こうなろう」と狙って選んだ道ではなかった。どちらかと言えば、行き当たりばったりで目の前の道を突き進んだ結果といえる。

「化学が得意だったし、安定した人生を求めて。薬に興味はあまりなかったんだよね(笑)」。

東北大学薬学部に入った理由を聞くと、小川さんはそう答えて、ハハハッと笑った。

東北大学は弓道の名門校で、それが志望動機でもあった。高校時代から弓道に熱中していた小川さんは大学でさらに没頭し、全国大会に出るために就職活動もせずに練習に励んだ。しかし、全国大会出場権を手にする目前で敗北。すっかり燃え尽きた小川さんは、卒業後、「いまでいう地域おこし協力隊」というボランティア団体に加入し、月給3万円で北海道の某高校に派遣された。

この高校が、別世界だった。

「チベットに行った時の異文化体験どころじゃない。普通の高校には通えない、見たこともないような不良といじめられっ子が通う学校で、最初に学校に行った時、ここから生きて帰れるんだろうかと思ったよ。力が全てのアナーキーな世界だった」

赴任期間の1年を終えた小川さんは、もはや弓道に熱中していた純朴な学生ではなくなっていた。時代はバブル真っ最中。同級生が一流企業の研究職などについてブイブイいわせているなか、「あれほど辛くて濃い1年はない」と振り返るほど北のカオスで強烈に揉まれた小川さんは、良くも悪くも、サラリーマン生活にはなじまないメンタリティと多少のことには動じないタフさを身に着けていた。そして、恐らくはその影響で、職業を転々とする人生が始まった。

研究職や薬剤師として就職するという道を捨て、道なき道を歩んだ

3ヵ月の予定だったインド滞在

山村留学の指導員、農場、薬草会社での勤務を経て、長野県で新規就農。しかし、2年後、「わかりやすく言うと、自分にむいていない」と農家を辞めて、いきなりインドに渡った。

唐突ですね!

「勢いで、飛び出しちゃった(笑)。日本での生活から逃げ出したかったことが大きいんじゃないかな。当時の社会世相で、バックパッカーが日本を飛び出している時代だったから、僕も出やすかったよね」

特に目的もなくチベット亡命政府があるインドのダラムサラに行った小川さんは、何の縁もなかったチベット語と医学の勉強を始めた。理由は、シンプルだ。 「誰もやってないことをやるのって、ワクワクするじゃないですか!」

とはいえ、インドに長居する気もなく、3ヵ月で帰国する予定だったという。

しかし、チベット語の勉強が楽しくなり、気がつけば2年半が経過。その区切りにしようと記念受験したのが、メンツィカン(チベット医学暦法学大学)の入学試験。この試験は2年続けて行われると、その後の4年間は実施されないという独特のシステムなのだが、偶然にも滞在中に試験があると知り、勉強の成果を試そうと受験を決めた。

「一生懸命勉強していたら収まりがつかなくなって、どこで区切りを付けようか迷っていたんです。その時に試験があると聞いて、絶対に受かるわけないけど、世界で初めて外国人としてこの試験に挑んで、落ちたら日本に帰ろうと思ってた」

メンツィカンは、チベットの将来を担う期待の若手が受ける大学で、超難関。そのうえチベット語の試験だから、歴史上、この試験を受けようとする外国人は皆無だった。しかし、史上初の外国人受験生、小川さんは弓道と同じように、全力でぶつかって潔く散ろうと寝る間も惜しんで猛勉強したところ、まさかの合格。「せっかく受かったから」と帰国をやめて、チベット人24人の同級生とともに、チベット医を目指すことになった。

小川さんの自宅に飾られた、チベット語が記されている布

収穫した薬草は、紙袋に入れて保管される

雨上がりの森の中で、草いきれに包まれる
小川さんが学生時代に使っていた「四部医典」。
命を懸けて、医学を学ぶ

医学校でも必死に勉強し、試験で3番に入ったことも

メンツィカンは、入学前の準備期間が1年あり、その後、6年間、チベットの伝統医学について学ぶ。チベットの大学は、どのようなシステムになっているのだろうか?

「学費は無料なんだけど、なんとなく僕は外国人だし納めた方が良いんじゃないかと思って、年間10万円ぐらい寄付という形で納めました。学生は寮生活で、食事も出るので一切お金はかからない。でも、僕は隠れて町のレストランに行って良いもの食べていました。ほかの学生からは、小川のやつはって思われていたけど、あまりストイックにならなかったのが学校に通い続けられた秘訣ですね。年間30万円ぐらいかかったけど、日本の旅行会社のガイドの仕事をして20万円ぐらい稼いで、あとの10万円は親がくれました」

勉強は基本的に、「四部医典」という名の687ページあるぶ厚い医学書一冊だけをひたすら深掘りするそうだ。ほかに年に一度、1ヵ月間、25名全員でチベットの山中にこもって貴重な薬草を採取する。この山籠もりがまたハードだった。標高3300メートの地にベースキャンプを設営し、広大なヒマラヤの山中を毎日歩き回るのだ。

「その1ヵ月間は、戦場に行くような気分で、生きて帰ってこれるのかなと思う。断崖絶壁を這い登ったり、荷物を頭の上に載せて川を渡ったりする生活で、もちろん、登山道具なんかありません。だから、僕は一度死にそうになったけど、後輩は実際に崖から落ちて死にました。日本だったらすぐに中止になるけど、チベットでは薬ができなくなるからやめるわけにはいかない。過去にも何人も大怪我しているほど過酷で、いま想像したら絶対に行きたくないよね」

もしかしたら死ぬかもしれない学生生活。並みの日本人なら辞めてしまいそうなものだが、小川さんは辞めようとは思わなかった。なぜなら、命を懸けて人を助ける医学を学ぶことが「カッコいい」と思えたからだ。

「メンツィカンの学生は、チベットではサッカーで例えれば日本代表の本田みたいなもの。子どもたちが憧れるカッコいい存在だから、その環境のなかにいると、命に関しても彼らと同じような感覚になるんだよ」

学校初の外国人、日本人として、仲間や教師に怯んだ姿を見せるわけにはいかないというプライドもあったのだろうと想像する。

小川さんは、卒業試験でもど根性を見せた。メンツィカンでは、筆記と面接の卒業試験とは別に、立候補者だけが臨む特別な試験がある。6年間学んだ医学書の約半分を暗唱するのだ。これを成し遂げれば、チベット社会では大きな栄誉となる。小川さんは「起きている間はずっと暗記」してこの超難関試験に挑み、4時間半をかけて暗唱に成功。同級生25人のうち7人しか達成できなかったというから、外国人である小川さんにとってどれだけ難しい試験だったかわかるだろう。

採取した薬草はお灸にもなる

抗がん剤はプラチナでできている

晴れて外国人初のチベット医になった小川さんは、現地での1年間の研修を終えた2009年、日本に帰国。馴染のある長野県に戻って空き家を借りて暮らし始めた。

なんのアテもお金もなかったが、日本で唯一のチベット医として地道に講演をしたり、ワークショップをしているうちに徐々に名前を知られるようになり、いまに至る。近年の健康志向、自然志向の高まりもあり、薬剤師として西洋医学のベースを持ちながら、同時にチベット医として東洋医学、伝統医学にも通じる小川さんの話を聞きたいという人は増えており、小川さんが開く「森のくすり塾」には、都内から足を運ぶ人も多い。

今年3月、「薬教育に関する総合的研究」をテーマに修士論文を書き、早稲田大学文学学術院を卒業した小川さんはいま、教育に関心を寄せている。

「医学とか薬の教育が必要だと思います。薬について何も考えてこないまま、年を取ってガンになったら、いきなり抗がん剤。知識がゼロなんだから、絶対に戸惑いますよね。例えば、抗がん剤の一部はプラチナでできているんですよ。抗ガン剤が高い理由は研究費もあるけど、プラチナだから。他の薬を開発する中で偶然効果が発見されたんです。そういう歴史を知ると、考える力が出てくる。病気は生き死にかかわることなんだから、もっと早い段階で準備をするべき。チベットから帰ってきて、日本はそこがおざなりになっているように感じますね」

最近では、薬=ケミカル=不自然なものということで「薬は一切飲まない」という人もいるが、薬の効果も正しい服用法も知っている小川さんからすると、薬に関する知識がないからこその極端な話になっているという。

「一般薬がどうやってできているか知っているから、僕は薬が怖くありません。でも一般の人たちは、それがわからないし、白くコーティングされていると色も味も匂いも何もないから怖くなる。人間は五感で感じられないと、不安になるんですよ。薬草は匂いも色も形もあって効果もはっきりしているから、自分で考えて使えるのが良いところです」

小川さんによると、薬草は一般薬の原料にもなっている。例えば、小川さんの自宅で味見させてもらったミカン科の樹木・キハダの黄色い樹皮。これは下痢止め薬の原料で、この錠剤が黄色いのは、まさにキハダの樹皮の色がそのまま出ているかだという。

小川さん宅の軒先に日陰干しされている薬草

日本でもほんの数十年前までは、薬草を軒先で干す風景は珍しくなかったそう

小川さんが採取したキハダ。
昔は忍者や山伏がキハダを薬として使用していたという
300種類の薬草に通じる小川さんだが、
身体が丈夫で自分で使用することはほとんどないそう
薬草の知識をカッコよくしたい

小川さんが採取し、乾燥させたハトムギを焙煎

焙煎したハトムギをすりつぶし、お茶に入れる。香ばしくて非常に美味

僕ら一般人は薬の知識が全くないのと同時に、かつて日本でも広く知られていた薬草の知識が継承されることなく失われているのも残念な現実だ。

「薬草の文化は、昭和30年代まで当たり前だったんです。ドラッグストアが進出したのは1980年代後半だから、それまでは富山の薬屋さんが届けに来るか、山のもので間に合わせるしかなかった。いま携帯がなかった時代を考えられないのと一緒で、薬草の文化もついこの間まで普通にあったものなんです」

長野は自然豊かで、特に標高が高い場所には薬草もたくさん生えているそうだ。松本にある徳本峠は薬草の宝庫で、かつて将軍に献上された最上級品だったという。それだけに薬草文化もまだ残っている長野で、小川さんは森のくすり塾を通して少しずつこの状況を変えようとしている。

ポイントは、やはり「カッコよさ」。例えば森に入り、キハダの木を探し出し、皮をカットする。それを煎じて飲めば、下痢が改善する。この一連の知識、技能を持っていることが「カッコいい」という文化にしたいという。

この想いが実現する芽は出始めている。老若男女、山歩きやハイキングがブームになっているからだ。確かに、山道で転んで血が出るような擦り傷を負ったり、草木やナイフで指先を切ってしまった時に、ヨモギに止血と殺菌効果があると知っているのは、カッコいい。

小川さんと一緒に古道を歩いていると、あちこちに何らかの役に立つ植物が生えていることがわかる。チベット人、日本人がいかに自然と共生してきたかを実感する。その記憶が失われかけているいま、山中で300種類もの薬草を見分け、自力で薬を調合できるという現代人にはないサバイバル能力を持っている小川さんは、僕にとってかなりカッコよく見えた。

僕の思考回路は単純だからすっかり影響されて、俺も薬草に精通したアウトドア派になりたい! と思い始めたのだけど、古道が終わるまさにその瞬間、「これはキイチゴ」と言いながら赤い実を口に含んだ小川さんが顔をゆがめて「プッ」と吐き出した。「なんだこれ……」。

ええっ! 小川さんでも間違えるの!? と驚いていたら、小川さんは少し照れくさそうにこういった。

「口に入れた瞬間、これは違うと感じる力も大切なんですよ」

どうやら薬草の道は思った以上に奥が深そうだ。

小川さんが菜園で栽培しているトウキ(当帰)。痛、鎮静、強壮などの効用がある

未知の細道とは
ドラぷらの新コンテンツ「未知の細道」は、旅を愛するライター達がそれぞれ独自の観点から選んだ日本の魅力的なスポットを訪ね、見て、聞いて、体験する旅のレポートです。
テーマは「名人」「伝説」「祭」「挑戦者」「穴場」の5つ。
様々なジャンルの名人に密着したり、土地にまつわる伝説を追ったり、気になる祭に参加して、その様子をお伝えします。
未知なる道をおっかなびっくり突き進み、その先で覗き込んだ文化と土地と、その土地に住む人々の日常とは——。

(毎月2回、10日・20日頃更新予定)
今回の旅のスポット紹介
update | 2015.8.20 未知の細道 信州薬草談義 日本唯一のチベット医と山の古道を歩く
森のくすり塾
[Web] 森のくすり塾のホームページ

ライター 川内イオ 1979年生まれ、千葉県出身。広告代理店勤務を経て2003年よりフリーライターに。
スポーツノンフィクション誌の企画で2006年1月より5ヵ月間、豪州、中南米、欧州の9カ国を周り、世界のサッカーシーンをレポート。
ドイツW杯取材を経て、2006年9月にバルセロナに移住した。移住後はスペインサッカーを中心に取材し各種媒体に寄稿。
2010年夏に完全帰国し、デジタルサッカー誌編集部、ビジネス誌編集部を経て、現在フリーランスのエディター&ライターとして、スポーツ、旅、ビジネスの分野で幅広く活動中。
著書に『サッカー馬鹿、海を渡る~リーガエスパニョーラで働く日本人』(水曜社)。

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