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未知の細道

38
Text & Photo by 坂口直 第38回 2015.3.10 update.
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運命の白い生糸 日本で唯一の座繰糸作家の軌跡

昨年世界文化遺産に登録され、脚光を浴びた全国初の本格的な器械製糸工場「富岡製糸場」。
実は、古くから養蚕業が盛んな群馬県では、富岡製糸場ができたあとも器械製糸ではなく「座繰り」という木製の糸ぐるまで糸を紡ぐ製法が長い間主流となっていました。しかし器械が改良されると急速に座繰り文化は後退。そんな中、ひとり群馬へやってきて座繰りを生業にしようと挑戦を始めた女性がいました。今では日本で唯一の座繰り糸作家となった東宣江さんの軌跡――

群馬県安中市鷺宮

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ある人から、こんな話を聞いたことがある。

かつて養蚕が主要産業として栄えていた群馬県では、夏になると、あたり一面葉が青々と繁った桑畑でいっぱいになる。その緑色があまりにどこまでも続くので、人々はその光景を「桑の海」と呼んだそうだ。

今では養蚕農家もすっかり数を減らし、桑畑も当時より少なくなってしまったそうだが、私はその話を聞いてから、群馬県の養蚕の歴史に興味を持った。

そんな中知ったのが、かつて群馬県で隆盛した製糸方法「座繰り」で糸を生み続けるひとりの若い女性、東宣江(ひがし・のぶえ)さんの存在だった。

消えた座繰製糸、受け継ぐ者

明治3年、群馬県で全国初の器械製糸工場が操業を開始。その2年後には西洋の先端技術を導入した本格的な官営工場が富岡におかれた。昨年世界文化遺産に登録され、今も脚光を浴びる「富岡製糸場」の誕生である。

こうして全国でもっとも早く器械製糸を導入した群馬県であったが、地元で器械製糸が広がりはじめるのはそれからおよそ50年後、大正時代に突入してからのことだったという。

なぜなら、地元の生糸生産農家では、「座繰り」という製糸方法が定着していたからだ。当初は農家ごとにおこなっていた座繰製糸だったが、組合を組織し生産効率と品質の向上を図ることで器械製糸に対抗した(これを組合製糸と呼ぶ)。 しかし、大正初期、器械が改良されさらに効率良く品質の高い製糸が可能になると、座繰製糸業は急速に後退。現在では、趣味や副業とする人はいるものの、座繰りを本業にする人はほとんどいないという。

今回お話を伺った東さんは、そんな座繰製糸を生業とする日本で唯一の「座繰糸作家」さんだ。群馬県安中市に、「蚕糸館(さんしかん)」という自身のアトリエを持ち、桑の生産から養蚕、製糸まで、生糸ができるまでのほぼすべての過程を自ら手がけている。

アトリエのある安中市鷺宮は、高崎と軽井沢の中間に位置し、富岡製糸場にも車で20分ほどで行くことができるアクセス良好な地域。最寄り駅のJR磯部駅で下車し、「磯部温泉」と書かれた看板を横目に15分ほど歩くと、田畑にかこまれた静かな住宅地にたどり着く。

このへんのはずだけど……。地図を片手に進んでいると、築100年は経とうかという木造2階建ての日本家屋に行き当たった。かすかな期待を胸に正面にまわると、入り口に「蚕糸館」と書かれた看板を見つけることができたのだった。

少女、ひとり群馬へ

ガラガラガラ……引き戸をあけ、奥に向かって「こんにちはー」と呼びかける。
間仕切りの向こう側からガタゴト音がして「はーい」と聞こえたかと思うと、次の瞬間、中から勢いよく飛びだしてきたのが、東さんだった。

「糸の作家さん」というイメージだけで、大人しい雰囲気の人かと思っていたが、その小さな体からはハツラツとしたエネルギーが溢れていた。聞けば和歌山県の出身だという。このからっとした明るさは、関西由来のものだろうか。

那智勝浦町という和歌山の南端にある海沿いの町に育った東さんは、高校卒業後、京都にある美術専門の大学でテキスタイル(織物)を学んだ。その後もひきつづき織物業の盛んな京都でテキスタイル関係の職場に就職。仕事をしながら自身の制作活動を行い、染織り作家として独立することを夢見ていた。
しかし、他の作家さんの作品を見たり、大好きな織物に触れたりするにつけ「自分には才能がないかもしれない」という想いを抱くようになったという。

そんなある日のこと。偶然立ち寄った骨董市で、これまでに見たことがないような美しい織物に出会った。織り方を見ると、とてもシンプルなものだった。となると、秘密は糸にあるのかもしれない。

「それをきっかけに、糸について徹底的に調べ始めたんです。そのときに出会ったのが、群馬県の伝統的な製糸方法『座繰り』でした」

―こんなものがあるんだ。 面白い!
さらに調べを進めると、タイミング良く群馬県主催の座繰製糸の講習会が開かれることがわかった。ただでさえ消えゆく伝統技術である座繰りを学べるのは、もしかしたらこれが最後のチャンスかもしれない。……よし!
こうして東さんは、講習会を受けるため、一路群馬へと旅立ったのである。

それが、東さんと座繰り糸との長い長い付き合いの始まりだった。

器械製糸工場の片隅で

「そんなにやる気があるんだったら、うちに来てやってみるか」
京都からやってきて、ひとり熱心に座繰りを学ぶ24歳の東さんに声をかけた人物――それは「碓氷製糸農業協同組合」の前組合長、茂木雅雄さんであった。

碓氷製糸農業協同組合は、現在国内に残る製糸工場としては最大規模である「碓氷製糸工場」の運営母体だ。碓氷製糸工場は、基本的には器械製糸の工場であったが、東さんと茂木さんが出会ったちょうどその頃「文化継承も兼ねて、座繰り部門をつくってみてはどうか」という話が持ち上がっていたところだった。

何の経験も技術も持たない東さんにとって、この話は千載一遇のチャンス。しかも工場内の女子寮に空きがあり、利用してもいいという。
タイミングと幸運に恵まれた彼女は、その話に飛び乗ることにした。

碓氷製糸工場は、蚕糸館から車で20分ほどの「松井田町」という町にある。実は東さんに取材した日に私もこの碓氷製糸工場に足を運んだのだが、住所をたよりにその場所へ向かうと、長い長い下り坂の先に見えたのは、反対側を崖に囲まれ、まるでその敷地内だけ時間が止まってしまったような、古びた工場群の姿であった。

機械の稼動する音でも聞こえてくるかと思ったが、坂の上から耳をすましてみても風の音がするばかり。明治から大正にかけて栄え、昭和30年頃までは200人以上の工女がここで働いていたそうだが、現在ではたった20人ほどの人員で稼働しているという。

東さんが初めてここを訪れたときも、その日私が見たのと変わらない光景が広がっていたそうだ。
「ここから再び出てくることはできるんだろうか……」
そんな不安を覚えながら、うら若き20代前半の乙女は、自分の夢をかなえるため、覚悟を決めて谷底の工場へ足を踏み入れた。

大型の機械が立ち並ぶ閑散とした工場の隅に、座繰り器が2台並べられた。
そこが、東さんが担当するたったふたりだけの座繰り部門の職場だった。

NEXCO東日本のサービスエリアでも販売されている、碓氷製糸工場オリジナルの絹製品。一番人気の商品は美肌効果のある「絹入り石けん」。

碓氷製糸工場では、平日5名限定で見学も受け付けている
(詳細はページ最下部の『旅のスポット紹介にて』)
東さんが利用していた座繰り機。現在も工場の隅に置かれたままだ。
繭から糸ができるまで

「初心者にもできることを段取りして、少しずつ仕事を覚えていきました」
勤務時間は朝の8時半から夕方の5時。仕事が終わると、パートの主婦たちは一斉に帰宅する。残された東さんはまっすぐ寮に帰ると、持ち帰った繭でひたすら糸を繰り続けた。

座繰りは、まずお湯を沸騰させるところから作業がスタートする。

沸騰したお湯に、数個の繭を入れる。
何個入れるかは、どれくらいの太さの糸を作るかによって毎回変わる。生糸の太さの単位は「デニール」で表され、繭一個から出る糸はおよそ3デニールとされる。製糸工場では器械で糸を作るため、細かな測量が必要な7個や9個など少ない数の繭からの製糸を強みとしている。座繰りでつくる糸はもう少し太く、20個以上の繭を使うことが多い。

ひとつの繭が3デニールなので、20個の繭をつかって糸を作ると、60デニールの糸ができることになる。女性なら気づいたかもしれないが、このデニール、ストッキングやタイツの厚みの単位と同じものである。つまり(ありえないけれど)、20個の繭でタイツをつくったら60デニールのタイツになるということだ。

数分煮てすこし繭がほぐれてきたころに、わらでできた箒で表面をなでてやる。すると、それぞれの繭から糸が引き出されてくるのだ。

この、いちばん最初に引き出されたものを「糸口」といい、これをひとつにまとめて、座繰り機の木枠に巻き付ける。あとは木製のハンドルを回しながら、糸を引ききって中の蚕が見えるほどの薄さになった繭と新しい繭とを交換し、デニールを均一に整え、糸を紡いでいくのだ。

数分間お湯で煮込んだ繭を藁でできた箒でなで、糸口を引き出す

こうしてできた糸は、上司や、糸に詳しい人に見てもらい、もらったアドバイスをもとに何度も試してはやり直し、半年間でなんとか売り物になるレベルまでもっていったという。

自らの手で養蚕を

「技術を学びながらお給金までいただいて、その上寮まで使わせてもらって……本当に幸運でした」
遊び歩くこともなく、食事代以外にお金を使う機会もなかったためみるみるうちに貯金が増えていった。こうして予定よりも早く独立資金を貯めた東さんは工場を退職。2年前、不安と期待をいっぱい抱えて下った坂道を、夢に向かって駆け上がっていったのだった。

はじめ、仲間と一緒に蚕糸館を立ち上げた東さんであったが、うまく利益をあげることができず一年で解散。その後はひとりでの活動に移った。
このころ、繭は養蚕農家から買っていたが、ある時農家さんから「高齢のためそろそろ生産をやめたい」という話をもちかけられた。また別の農家さんを探そうかとも思ったが、どこも高齢のためまたしばらくしたら他をあたらなければいけないだろう。そもそも、年々減少の一途をたどる養蚕農家に頼りつづけていたら、いつか繭を手に入れられなくなってしまうかもしれない――。

そう案ずる東さんの目の前に、またしてもタイミングよく養蚕を学ぶチャンスが訪れた。県が主催する養蚕講習が開催されるというのだ。
「私、おばあさんになっても、糸を繰り続けたかったんです。だからいっそのこと全部自分でできるようになっちゃおうって思って。それで、講習をうけることにしました。そうすれば養蚕農家さんが見つからなくて気をもむ必要もなくなるし、糸のことをより深く知ることもできるでしょう?」

こうして、1ヶ月に渡る養蚕研修を受けた東さんは、熱のあるうちにこの技術をしっかり自分のものにしようと、その後2年間養蚕農家に弟子入りした。
こうして養蚕技術を体得すると、少しずつ自分でも蚕を育て始めたという。

糸にムラが出ないよう繭を確認しながらハンドルを回す。
木枠が高速回転して糸を巻き取っていく。
蚕絲館正面のビニールハウス。糸を吐き始めるまで
蚕はこの場所で育てられる。飼育用の蚕は大人しい性格のため、
天井がなくても囲いの外へ逃げることはないという。
お蚕さんの育て方

東さんは蚕のことを「お蚕さん」と呼んでいた。かわいらしい人だなぁ。と思っていたが、聞けば、養蚕農家ではそのように呼ぶのが通例なのだという。虫とはいえ、生活を支えてくれる大切な存在に対する敬意の表れなんだろう。

お蚕さんはどのシーズンでも育てることが可能だが、東さんのところでは春と晩秋の2回だけ養蚕をおこなっている。ちなみに、春の養蚕を「春蚕(はるご)」、晩秋の養蚕を「晩秋蚕(ばんしゅうさん)」と呼ぶそうだ。
この2シーズンとしているのは、春のやわらかな新芽を食べて育つと上質な繭ができるため、そして、春に丸裸になった桑に再び葉が茂るのが晩秋のタイミングだからだという。

専門の業者から購入した卵をふ化させると、最初は人間の赤ちゃんの離乳食同様、食べやすいように桑の葉を細かく刻んでから与えるなど、かなり手間のかかる期間が10日間ほど続く。その後お蚕さんは、数日間ひたすら桑を食べる→脱皮する、というサイクルを4回繰り返し、1ヶ月ほどの期間をかけて少しずつ大きくなっていく。

一回の養蚕で数万匹単位のお蚕さんを育てるため、育て始めるとその1ヶ月間は朝から晩まで大忙しだという。唯一休めるのは、お蚕さんが脱皮する「眠(みん)」と呼ばれる日。眠はふ化から4日後・7日後……(卵の種類によって違う)などときっちり日にちが決まっており、その日がやってくるとすべてのお蚕さんが桑の葉を食べるのをやめ、まるで眠っているかのようにぴたりと動きを止めるそうだ。

そんな忙しい日々をなんとか乗り切り、「熟蚕(ズウ)」と呼ばれる十分な大きさまで育てると、徐々にお蚕さんの身体が透き通ってくる。待ちに待った、糸を吐き始めるサインである。

生き物を仕事にするというリアル

この段階になると、お蚕さんは格子状に編まれた「簇(まぶし)」に移される。狭い場所の方がお蚕さんが安心して糸を吐くことができるからだ。
この作業を「上簇(じょうぞく)」または「オカイコアゲ」と呼ぶが、この言葉の由来は、お蚕さんが糸を吐きはじめると2階にあげる風習があったためだという。

回転まぶし。蚕は上へ登る習性があるため、片寄らないために重みで上下が回転するシステムになっている。

「糸を吐き始めると、2〜3日の間は、休みなく吐き続けます。糸を吐いてるときって、パチパチパチって音がするんですよ。だからその音が聞こえなくなると、あ、終わったんだなって分かるんです」
こうして音がやんだころ2階にあがると、お蚕さんがすっかり繭に包まれて枠の中に収まっているのだそうだ。

養蚕家屋の2階部分にはこのようなスペースがあり、蚕が安心して糸を吐ける環境が整っている。

東さんは、繭をひとつ持ってきて、私の前で振ってみせた。
「カラカラって音がするでしょう? 中にお蚕さんがいるからですよね。繭は、お蚕さんがサナギから成虫になるときに外敵から身を守るおうちなわけだから、お蚕さんが中にいるっているのはちょっと考えればわかるはずなんです。だけど、大人の人でも中にお蚕さんがいるって知らない人、結構多いんですよ」

牛や豚の肉だって食卓にでてくるときにはお肉の形をしているけれど、きっとその裏では誰かが殺してくれて切り分けてくれている。でも消費する私たちはなかなかそのことに意識がいかないんです、と東さんは悲しげに語った。

お蚕さんは、繭ができあがるとすぐに絶命させられる。大きな工場だと高温の熱風に当てられる。東さんのところでは冷凍することで命を絶っているという。
いくら虫とはいえ、手塩をかけて育てた命を生活の糧のために殺すということに最初は戸惑いを覚えた。でも、どうしてもやらなければならなかった。
「ひとつだけ自分に誓っているのは、この胸の痛みを消しちゃいけないってことです。当たり前と思っちゃいけない。命をリアルなものとして感じ続けることをやめないようにしようと思っています」

お蚕さんを育てたことのある人にしか分からないもうひとつの音がある、と東さんは言う。それは、お蚕さんが桑を食べるときの音。何万匹ものお蚕さんが一斉に桑を食べると「ザァーッ」という、まるで雨が降っているような音がするのだそうだ。

それはきっと、とても神秘的な、命を感じる音に違いない。

各シーズンごとに作られた繭は、日光に当たらないようにして
長期間保管される。一番下は「ぐんま黄金」という品種の繭。
もともと蚕がつくる繭はこのような黄色をしていて、
白い繭は品種改良により生まれたものだという。
蚕絲館正面にて
平石さんと東さん
生糸で繋がる運命

養蚕を始めてしばらく経ったときのことだった。
ある日、東さんの活動を知った市の職員から連絡があった。「もしよかったら、あなたに有効に利用してほしい」県の保有する養蚕農家の家屋を使ってほしいという話だった。それまで、ボロボロの狭い工房に住んでいた東さんにとって、願ってもない提案だった。

こうして、「蚕糸館」は現在の住所に軒をうつすことになった。

「その頃から、お蚕さんに食べさせる桑も自分で育て始めたんです。でも、始めてみると春〜夏の間は雑草取りやら畑に肥料を入れるのに時間をとられて、全然糸を作ってる時間がなくなっちゃって。でも私の仕事は糸を作ることでようやくお金になるものなので、収入が激減してしまったんです」
一体自分は何をやっているんだろう。糸を作るためにお蚕さんを育て、桑を育てているはずなのに……。

時折畑の桑の木に現れるという、野生の蚕がつくった繭

またしてもそんな東さんのもとに救いの手が差し伸べられる。現在、東さんの旦那さんである、平石亘(ひらいし・わたる)さんとの出会いだった。

徳島でサラリーマンとして働きながら、ライフワークとして日本の伝統産業について調べたり実際に取り組んでいた平石さんは、養蚕業について学ぶため、コンスタントに群馬に通っていた。そんな中、ひとりがむしゃらに養蚕をする東さんに出会ったのだ。
養蚕の魅力も、東さんの苦労も共に分かち合ってくれる平石さんは、いつしか東さんの心のよりどころとなり、2人は人生のパートナーとして、そして同時に、養蚕業のパートナーとしての道を歩み始めることとなった。
運命の赤い糸とはよく言うが、2人を結びつけたのは運命の白い生糸だったのだ。

こうして3年前に2人が結婚すると、桑畑の管理を平石さんが担当してくれることになり、東さんは糸づくりに注力することができるようになった。

たぐりよせた運命

東さんの朝は、「揚返し」から始まる。
前日にできあがった小さな木枠4〜5個分の糸を、大枠に巻き直す作業だ。

「このあとに、よりかけ(糸をひねることで強度を上げる)、精練(糸についたセリシンという糊の成分を取り除く)という段階があるんですが、それは業者さんがやってくれます」
そうして業者から戻ってきた糸は、私たちが見たことのある、ツヤツヤと光る絹糸となっているのだ。

(上) 精練前 (下) 精練後
通常目にするのは、精練後の絹糸だけ

「ちなみに今日揚返しした糸は、縁側に干してありますよ」
そう言って東さんが縁側と部屋を隔てる障子を開ける。
「うわぁ! 何ですかこれ! 綺麗!!」
そこでは、昨日できあがったばかりの大量の糸が、太陽の光をうけきらきらと輝いていた。近づいて触ってみると、まだ固くぱさぱさしている。

「この段階の糸は製糸に関わっている人以外、見る機会はほとんどないと思います。みなさんが目にするのは、精練されたなめらかな絹糸だけなので」
たしかにそれは、私がよく知る絹糸とはまったくの別物だった。東さんは乾燥春雨と例えていたが、私は「少しカピカピになった習字の筆先に似ている」と思ったのだった。

ふと、窓の外で猫がキャットフードを食べている姿が目についた。思わず目で追っていると、「ああ! あれね(笑) ほら、猫ってネズミを食べるでしょう?ネズミって繭の天敵なんですよ、かじっちゃうんです。だからうちではああやっていつも猫にごはんあげてるんです。ちゃんと働いてね、って意味をこめて」と東さんは笑った。
東さんのところだけでなく、もともと養蚕が盛んだったこの地域では猫を可愛がる文化が根付いているという。

「まわりがみんな、養蚕をやってた人たちばっかりなんです。みんな、養蚕の苦労や、いかにそれで稼ぐことが難しいかも知ってるから、こんな私を見て、心配して声をかけてくれたり、手伝ってくれたり……。あるときなんて、軒先にどーんと養蚕道具が一式置いてあったこともあったんですよ(笑)」
思えば、碓氷製糸に入ることができたのも、タイミング良く養蚕研修を受けることができたのも、養蚕家屋を借りることができたのも、人生と仕事両方のパートナーとなる人と出会えたのも、養蚕の本場であるこの地に来たからこそ。

東さんのもとに集まってきたたくさんの座繰り機

京都で自分の将来に迷っていた東さんが見つけた「座繰り」という解決の糸口。
不可能と思われた「座繰り糸作家」としての道を歩み始めることができたのも、単なる幸運の連続ではなく、この糸をどこまでも迷いなくたどってきた彼女だからこそ、なのかもしれない。

白く輝く糸をうっとりと触り続ける私に、東さんはこの日一番の笑顔を見せて言った。
「私も、もう糸をやり始めて何年も経つけれど、今でもお蚕さんが糸を吐くところや、繭や、繭から引き出された糸を見ていてうっとりするというか、綺麗だなぁって感じるんです。そういう美しい、綺麗なものを生み出せるっていうことが、すごく嬉しいなって感じますね」

揚返しされたばかりの糸
未知の細道とは
ドラぷらの新コンテンツ「未知の細道」は、旅を愛するライター達がそれぞれ独自の観点から選んだ日本の魅力的なスポットを訪ね、見て、聞いて、体験する旅のレポートです。
テーマは「名人」「伝説」「祭」「挑戦者」「穴場」の5つ。
様々なジャンルの名人に密着したり、土地にまつわる伝説を追ったり、気になる祭に参加して、その様子をお伝えします。
未知なる道をおっかなびっくり突き進み、その先で覗き込んだ文化と土地と、その土地に住む人々の日常とは――。

(毎月2回、10日・20日頃更新予定)
今回の旅のスポット紹介
update | 2015.3.10 運命の白い生糸 日本で唯一の座繰糸作家の軌跡
碓氷製糸工場
現在国内で器械製糸工場として稼動している2工場のうちのひとつ。
平日のみ、5名以上の団体限定で見学が可能(要電話予約)
※業務の状況によってはお断りする場合があります。ご了承ください。
[住所] 〒379-0221 群馬県安中市松井田町新堀甲909
[電話] 027-393-1101
蚕絲館
日本で唯一「座繰り糸作家」を職業とする、東宣江さんのアトリエ。
見学を希望する場合、要電話予約となります。
[住所] 〒379-0124 群馬県安中市鷺宮19432-1
[電話] 027-384-0232
[Web] 蚕絲館のホームページ
ライター 坂口直

ライター 坂口直 1985年、東京都生まれ。
大学卒業後、海外特許取得に係る手続きの代理業に5年間従事。
初めてアジア以外の海外を訪問した際、異文化の面白さを感じ、まだ見ぬ人や文化に出会いたいという思いが芽生えるようになる。
その思いを遂げるべく、2013年春よりフリーのライターとして活動開始。現在はWeb媒体を中心に活動を広げている。

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