芝居が始まる直前、会場を支配する緊張感が好きだ。
照明が落とされ、開演を待ちわびた客が息をひそめる。隣りの人の鼓動の音まで聞こえてきそうな一瞬の静寂。
その日、2間(約3.6メートル)四方の舞台には金屏風が広げられ、正面にはライトアップされた少年の和人形が座っていた。私は会場いっぱいに集まった十数名の観客と共に、胸を高鳴らせ主役の登場を待っていた。
突然、甲高い鉦(かね)の音が響いた。
トトン、という太鼓の音が続く。それらはやがて無機質な旋律となる。
舞台上手から、全身に白装束をまとった役者が音もなく現れる。羽衣のようなものを被っている。まるで人間味のない足取りで下手側へ進む。つと正面を仰ぎ見る。その顔は、柔らかな表情をした女性のお面だった。
——彼女だ。
私にはそれが誰なのかすぐに分かった。なぜならこの芝居の出演者は、人形を除けばたったひとり。
その人とは、人形師・飯田美千香さん。
彼女に会うために、私は長野までやってきたのだ。
数週間前のこと、インターネットのニュースサイトを何気なしに眺めていたら、「宮崎駿監督原案の人形芝居が上演」という文字が目に飛び込んできた。
思わず二度見した。宮崎駿って、あの!?
記事によれば、そのお芝居は、宮崎氏の発案したプロットをもとに製作されたものだという。タイトルはずばり「うつ神楽」。作品のテーマは、現代病でもある「うつ病」だ。
ビジュアルは、能や狂言、歌舞伎などの日本の古典芸能に近い。
2013年夏に初演されて以降、長野県昼神温泉の旅館にある能舞台で定期公演を行っているという。
写真やタイトルから伝わってくるインパクトからは、確かに宮崎監督の世界観が感じられる。しかし、一体どうして日本アニメ界の巨匠原案の「舞台」が「長野の地で」公演されることになったのか不思議でならなかった。
演者の情報を調べると、飯田美千香さんという女性が演じているということが分かった。私はさっそく彼女に連絡をとり、会いに行く約束を取り付けたのだった。
「もうすぐ、アトリエでの初公演が行われるんです。そのちょうど次の日に『うつ神楽』の公演があるので、良ければ2本共見に来ませんか?」
そんな彼女からの素敵な提案に従って、私は「うつ神楽」公演の前日に長野入りした。
アトリエがあるのは、中央アルプスに挟まれた「伊那谷(いなだに)」の地。青々とした畑がどこまでも広がり、古き良き日本の原風景をそのまま残す貴重な地域だ。JR飯田線「伊那本郷駅」で下車し、20分ほど歩くとアトリエに到着する。辺りには人家と畑だけ。こんなところに芝居のアトリエがあるなんて、少し不思議な感じだ。
この建物は元々、飯田さんが所属していた劇団「百鬼どんどろ」の拠点として使われていたものだ。劇団の主宰者であった岡本芳一氏が2010年病気のためこの世を去ると、唯一の後継者として劇団に残っていた飯田さんが引き継ぐことになった。今年三月、稽古や公演に利用できるよう改装。看板には自身の屋号である「百鬼ゆめひな」の名を掲げた。今回の公演は、新アトリエ完成後のこけら落とし公演でもあった。
飯田さんのアトリエ。こけら落としとなる公演にはたくさんの人が詰めかけていた
冒頭のシーンは、その日の演目である「風」での一幕。
舞台に登場した白装束の女性は、「風の神」。彼女が少年の人形の背後にまわり、コツン、と頭をぶつけると、その瞬間魂が吹き込まれたかのように少年が目を覚まし、動き出す。少年に寄り添うようにして、風の神自身も一緒に舞い踊る。2人はまるで、それぞれ意思をもった別の命のようだった。
30分間のステージには台詞はなく、ストーリーは音楽と所作、舞だけで展開していく。場面は次々と変わり、それに合わせて音楽や登場人物も変化する。
雅楽のようでありながら遠く異国を思わせる不思議な音楽と、時に妖艶で時に猛々しい彼女の舞いにみるみる引き込まれていく。
伊那谷の名産品があしらわれた目に鮮やかな衣装に変わり、風の神が五穀豊穣の舞を踊るクライマックスの頃には、すっかり異世界に迷い込んだような感覚に陥っていた。
「風の神」の衣装。地域の名産品が色彩やかにあしらわれている
舞台が終わり、拍手とともに面を外した彼女が出てきたとき、ようやく私の心もこちらの世界に戻ってきたのだった。
翌朝目覚めると、窓の外には青空が広がっていた。
「うつ神楽」が公演される昼神温泉のある阿智村は、環境省の全国星空継続観測で、「星が最も輝いて見える場所」の第一位(平成18年)に認定されている。もしかしたら今日は満点の星空が見られるかもしれない。
この日は、公演前まで飯田さんに話を聞かせてもらえることになっていた。少し早めに支度を終えた私は、アトリエの最寄り駅まで電車で行き、道ばたの野花や「おもひでぽろぽろ」にでも出てきそうな里山の風景を撮影しながらブラブラと歩いて向かった。
アトリエに到着するとすでに扉が開いていたので、奥に向かって呼びかける。「こんにちはー」
前日とはうってかわって誰もいない空間に、私の声が寂しく響いた。その様子を、壁のガラスケースにずらりと飾られた人形達に見られているような気がした。
「あっ!すみません昨日はあまりお話できなくて!」
奥から飛び出してきた飯田さんと、改めて挨拶を交わす。昨晩は公演後に打ち上げがあったため、ほとんど会話していなかったのだ。
舞台を降りた彼女はとても無邪気な人だ。少し高めで柔らかい声のトーンが、彼女をいっそう少女らしい雰囲気にさせている。
「坂口さんお腹空いてません?近くに美味しいスープカレーのお店があるので一緒にどうですか?」
時刻はちょうど12時。鞄の中にはおにぎりを2個放り込んできていたが、「美味しいスープカレー」と聞いて黙ってはいられない。お言葉に甘えて連れて行ってもらうことにした。
アトリエから車で10分ほどの中川村に、飯田さんおススメの「ベースキャンプコーヒー」はあった。以前は農協の建物だったというだけあって、外観は農協そのものだが、内装はきれいにリノベーションされて今風のおしゃれなカフェになっている。
間もなくしてやってきたスープカレーは、透き通ったスープの中に夏野菜がゴロゴロ入った贅沢な一品だった。
旦那さんが独自に研究して生み出したカレーは絶品!
「美味しい〜!!」
私よりも一足先にカレーを口にした飯田さんが悶絶する。
慌てて私も一口食べてみると、うん……確かに!
トマトのまろやかな酸味とスパイスの複雑な味わいが絶妙にマッチしている。すぐ近くの畑で収穫しているという野菜は、味がとてもしっかりしていて甘い。飯田さんがファンになるのも納得だった。
カレーを食べながら、彼女が今に至るまでの話を聞かせてもらった。
飯田さんの出身は鹿児島県。25歳までは、旅行代理店でOLをしていたという。
もともと市松人形や仏像、果ては般若心経まで、日本の神秘的な事物に興味のあった彼女は、ある日、何気なくつけていたテレビの画面に釘付けになった。
そこに映し出されていたのは「百鬼どんどろ」主宰・岡本芳一氏が演じる、怪しく美しい人形芝居の世界。
岡本芳一氏の作品「化身」の一幕
中央アルプスの雄大な自然と人形芝居の幻想世界が見事に融合している。
飯田さんの作品も野外で行うこともあるという。
「その画面の中には、私の好きなものが全部揃っていた」
と彼女は振り返る。
そこからの彼女の行動力は目を見張るものだった。
番組に電話をし、百鬼どんどろの連絡先を突き止めた。公演日の情報を得ると、鹿児島から一路長野へ。舞台は彼女の期待通りのものだった。その後も数回公演を見に行った。25歳の女性が鹿児島から観に来ているということは劇団内でも話題になり、彼女はいつしか劇団の中に自然に溶け込んでいった。入団を決めた。両親にだまって勤めていた会社をやめ、伊那谷に移り住んだ。
驚きなのは、それまで彼女は生まれ故郷の鹿児島を離れたことはなかったし、舞台の世界に足を踏み入れたこともなかったということだ。
「先走っててもいいやって思いました。失敗しても、笑い飛ばしちゃえばいいんです」
それからしばらくは、どんどろの団員としてにぎやかに世界を飛び回る日々を送っていたが、次第に劇団は縮小。座長の岡本氏がこの世を去ると、最終的に飯田さんだけがこの地に残った。
「うつ神楽」の制作が本格的にスタートしたのは、岡本氏が亡くなった数ヶ月後のことだった。
「岡本さんが亡くなったときは、悲しくて何も手につきませんでした。でも、結局最後は人形芝居をやることでしか、この悲しみを乗り越えられないと思った。だから、やることにしたんです」
「うつ神楽」を語る上で、原案の宮崎駿監督、演者の飯田さんの他にもうひとり、欠かすことのできない影の立役者がいる。
それは、脚本・演出を手がけた逸見尚希氏だ。
長野へと旅立つ数日前、私は彼に話を聞くため、東京・飯田橋にいた。
逸見さんは、「うつ神楽」の原案が生まれた当時、のちにその公演舞台となる長野県阿智村昼神温泉にある旅館「石苔亭いしだ」で社長を務めていた人物だ。現在は、自身で地域文化マネジメント事業を立ち上げるなどして、阿智村と東京を行き来する生活を送っているという。
すべての始まりは2007年。逸見さんが宮崎監督に送った一枚の手紙がきっかけだった。
逸見さんの住む南信州は「神の棲む里」と言われており、神様にまつわる祭りや言い伝えが多く存在している。その代表的なものでもある「霜月祭り」は、大きな釜に湯を沸かし、その湯気に八百万の神々を降ろして夜通し神遊びを行うというもの。地元では、この祭りが、2001年に公開された宮崎駿監督の作品「千と千尋の神隠し」のモチーフになっているのではないかと言われていた。
宮崎監督と繋がりのある知人がいた逸見さんは、果敢にもその事実を確かめるため監督にあてて手紙を書き、知人に託した。すると3〜4日もしないうちに、本人から返事が届いたという。
そこには、このように書かれていた。
「仰る通り。『千と千尋の神隠し』には、3つのモチーフがありますが、そのひとつは幼少の頃の銭湯の体験、それから西洋の竜の話、そしてもうひとつが、南信州の霜月祭りなのです」
その手紙をきっかけに、宮崎監督との繋がりが生まれた。
翌年、監督自身も参加する森林保全ボランティアに逸見さんが参加した際、神事や祭りに関する話で監督と話が盛り上がった。
そのときに「実は前々から考えていた舞台の案があって」と宮崎監督が「うつ神楽」の筋書きを明かしたという。
舞台となるのは、鬱蒼と茂る暗い「うつの森」。
森の住人であるうつおは、その森に点在する「うつ玉」を食べて暮らしている。
ある日、森に少女が迷い込んでくる。うつおは少女にうつ玉を食べさせようとするがうまくいかず、怒って少女を飲み込んでしまう。嘆き悲しむうつお。しかし、少女の純粋無垢な心が彼を救う。うつおは本来の女神の姿に戻り、村の多幸を願い神楽を舞う……
監督は逸見さんに対し、「案を譲るから、神々が集まる南信州でこの神楽をやってみないか」と提案。そのときから彼の創作活動が始まった。
多忙な宮崎監督と会えるのは年に一度のボランティアの日のみ。会えない間、彼は自身でデッサンを描き、細かなストーリーを詰めていった。監督と会う機会ができるとそのアイデアを持っていき、修正をうける。監督からは、登場人物の姿や小道具、大切にすべき世界観まで、細やかなアドバイスがあったという。
宮崎監督が描いたうつお(上)と女神(下)のスケッチ
うつおの周囲に散らばっているのは「うつの玉」だ
宮崎駿監督と逸見さん
「主人公が森でうつ玉を食べる場面があるのですが、見ている人がわかりやすいようにとこの玉に“障”“怒”“欲”などの文字を書いていたら、『この文字は必要ない』と言われました。『多くを語ってはいけない。観ている人に感じさせないとダメだ』と」
こうして、最初の出会いから6年の歳月をかけて、「うつ神楽」が完成した。
昼食から戻ってくると、休む間もなく飯田さんは「うつ神楽」の衣装の修繕を始めた。「ずっと使っていると、ちゃんと手入れしてあげないと取れてきちゃうんです」彼女の手元にある真紅の衣装には、たくさんのつるし雛がついていた。
――「宮崎駿監督の原案をもとに人形神楽をやってみませんか」
彼女の元に、そんな話がやって来たのは、2010年春のことだった。
これまでたびたび舞台出演していた「石苔亭いしだ」の代表・逸見さんからの提案だった。「宮崎駿監督?」はじめは半信半疑だったものの、答えはもちろん「やります!」。こうして「うつ神楽」はいよいよ実現に向けて動き始めた。
これまで、男女の情念や、怪しの世界ばかりを表現してきた彼女にとって、「大人も子供も観て楽しめる」舞台を目指す逸見さんの演出との融合は困難を極めた。しかし、苦しみながらも、今まで試したことがないことに新たに挑戦していく中で、それらが実現していくことの素晴らしさに気づいたという。
「最初は逸見さんとぶつかることも多かったです。この衣装にちりばめられた300個の吊るし飾りも、最初『これをつけられないか』と逸見さんに言われたとき、『無理ですよそんなの!』って言ったんです。でも、無理じゃなかった。やってみたら、すごくいいものができたんです」
「うつ神楽」に登場する面や人形は彼女の手作りだが、主人公「うつお」の面には、師匠・岡本氏が生前使っていた「絶望顔」というアダ名の面を使用しているという。宮崎監督が描いたうつおのイメージに、この面がピッタリだったからだ。図らずもその面は「千と千尋の神隠し」のカオナシにそっくりだった。
衣装の修復を終えると、もう出発の時刻が迫っていた。
バタバタと必要なものをすべてケースに入れて車に詰め込む。
「ええと、忘れ物はないかな。いち、にい、さん、し……」
人形芝居では、衣装や道具の忘れ物は命取りだ。「出発するときはいつも緊張する。だからしつこいぐらい確認するんです」と彼女は笑う。
確認が終わると、車は昼神温泉に向けて出発した。
到着した昼神温泉は、渓流のせせらぎの聞こえる静かな温泉街だった。
日の暮れ始めた空は群青色の絵の具を水に溶かしたような色をして、その静けさをいっそう助長させていた。
飯田さんの運転する車は、京都の寺院のように立派な門構えの建物の脇に停まった。看板を見ると「石苔亭いしだ」とある。公演会場の旅館に到着したようだ。
「石苔亭いしだ」のエントランス
まるで異世界への入り口のよう
公演後まで一旦飯田さんとは別れ、彼女は裏口から、私は正面玄関から会場に入ることにした。門の奥には朱色の柱廊があり、そのつきあたりの玄関からはスポットライトに照らされた金色の能舞台が見える。その景色は、異世界への入り口のようにも見えた。
能舞台「紫辰殿」は、3間(6メートル)四方。3.6メートル四方のアトリエの舞台と比べると、かなり広く感じる。
開演10分前頃になると、徐々に人が集まってきた。紫辰殿の舞台は1000円で一般の観覧もできるが、この日は宿の浴衣を着た宿泊客がほとんどだった。
照明が落ち、案内のアナウンスが始まる。
アナウンスが終わると、一瞬の静寂が訪れた。金色に光る舞台。暗闇。
アトリエ公演のときよりも、わずかに緊張している自分がいた。
鳥の声。
白い衣装に身を包んだうつおが、おずおずと登場する。うつの森だ。慈しむように少女に寄り添い、舞う。場面は次々に展開し、ついにうつおは少女を飲み込んでしまう。真っ黒に染まるうつお。すると身体の中から変化が起こる。それはやがて、真紅の衣装を身にまとう女神の姿へと変貌を遂げ、鈴の音が響き渡る。
宮崎アニメを見ているときの、神や自然に対する畏敬の念を刺激されるあの感じが全身をかけめぐった。しかもそれは画面の向こう側ではなく、「目の前で」繰り広げられていることなのだ。「うつ神楽」の不思議の世界とこちらの世界の境界線は、いつしかあいまいになっていた。
実は逸見さんが以前、宮崎監督に「うつ神楽」を絵本にしたいと提案したとき、こんな言葉が返ってきたという。
「お祭りや神楽には、その場にいるからこそ感じることができるものがあるんだ。この物語は絵にしちゃだめだ。生身の人間にしか伝えられないものがあるんだよ」
公演が終わった頃には、もう外は真っ暗だった。
片付けを終えて飯田さんが出てくるのを、私は星を見ながら待っていた。
期待した通り、この日、阿智村の空には満天の星がきらめいていたのだ。私が行ったのは初夏の頃だったので、天の川がよく見えた。
宿から出てきた彼女は、上を向いている私を見ると、
「星、見れて良かったですね」と笑った。
「どうでしたか?」と尋ねる彼女に、私は、想像していたよりもはるかに深くうつの森の世界に引き込まれたと伝えた。そして最後にひとこと、「でも昨日の演目『風』も、うつ神楽に負けないぐらい引き込まれました」というと、飯田さんは「やったー!」と心底嬉しそうに笑った。
「実はね」
彼女はそう続けた。
「うつ神楽を作った時、その時自分にできることは全部やったんです。だから正直、次の作品をつくるのが億劫になってて。この作品を超えるものをどうやったら作れるんだろうって……」
そんなとき彼女が出会ったのが、絵本「とうさんと ぼくと 風のたび」(小林豊著)だった。この物語の舞台は、飯田さんの暮らすここ南信州だ。
「そのときに気づいたんです。自信を持って私にしかできないもの、自分の中でぶれないものって南信州の土地とかルーツなんじゃないかって。そこからこの絵本を原案にして『風』という作品をつくったんです」
だからこそこの日本で、伊那谷の地で活躍できることが何より嬉しいと彼女は言った。アトリエが完成し、その場所で公演ができるようになった今、ますます彼女の活動はこの地に深く根を張る。その豊かな大地からたくさん力をもらって、たくさんの花をつけ、実を実らせることだろう。
ここは神の棲む里と呼ばれている南信州。しかも上を見上げるとまばゆいばかりの星が煌めいている。
彼女の舞は本当に異世界への入り口を開いてしまいそうだな、なんて夢みたいなことを考えて、私は笑った。
ライター 坂口直
1985年、東京都生まれ。
大学卒業後、海外特許取得に係る手続きの代理業に5年間従事。
初めてアジア以外の海外を訪問した際、異文化の面白さを感じ、まだ見ぬ人や文化に出会いたいという思いが芽生えるようになる。
その思いを遂げるべく、2013年春よりフリーのライターとして活動開始。現在はWeb媒体を中心に活動を広げている。